第24回女性文化賞決定のお知らせ
第24回女性文化賞は、「『木の葉のように焼かれて』編集委員会」に決まりましたので、お知らせいたします。
『木の葉のように焼かれて』は、広島で1964年以来半世紀余り、ほぼ毎年継続的に発行されてきた被爆体験集です。2020年現在54集まで出ています。1962年に全国的な女性団体である新日本婦人の会が誕生、翌年広島支部が結成されたとき「広島にふさわしい活動をしたい」と被爆体験集を出したのが始まりでした。冊子の題名は、会員の一人で自らも被爆し、妹を失った名越操さんの手記にある「みんな、木の葉のように焼かれて、消えて行った」という文章からとりました。編集に当たったのは名越さんを含めた会員で、「仕事を終えた後に被爆者に会いに行き、涙を流しながら聞き書きをしたこともあった」と言います。
第一集は「新日本婦人の会広島支部」として刊行され、第二集から五集までは県本部と共編、第六集以降は県本部が発行者になりましたが、編集委員会が独自に作られ、長く続けた方や新しい参加者などの協力で続いてきました。現在は県内の各支部から編集委員が参加しています。「はじめは一回だけと思っていたが、読者からの反響が大きく、続けることになった」そうです。しかし「被爆証言はたくさんある」「同じような体験記が続くので出す意味があるか」という声もあり、編集委員であった名越さんの幼い息子さんが被爆二世として白血病で亡くなるという衝撃もあって、発行できなかった年もありました。しかし、読者の声や被爆体験を持たない若い世代との交流に励まされ、半世紀を超えて2020年54集を刊行することができました。この間1978年にはベトナム戦争に抗議して焼身自殺した「アリス・ハーズ夫人記念平和基金」を授与されています。この息の長い活動は、新婦人という組織の支えがあったからですが、「次はあなたがやってね」と声をかけられて自発的に編集委員を引き受け、原稿依頼から聞き書き、調査などに取り組んできた方がたの献身的な働きなしにこれほど長く継続してこなかったと思われます。若い世代に引き継がれ、これからも続いて行くことが期待されます。
21世紀に入って核兵器廃絶運動が世界に広がり、2017年には国連で核兵器禁止条約採択、2020年には批准国が50か国に達して来年1月に発効することになりました。核兵器の製造・保有・使用はもとより、研究・実験・威嚇に至るまですべて禁止を明記したこの条約の成立に、唯一の戦争被爆国である日本の被爆者の訴えが大きな力になったことは国際的に認められています。その訴えを世に出すため、女性の手で発信し続けてきた『木の葉のように焼かれて』の編集委員の方がたの努力を多とし、今は亡き方がたも含めて過去・現在(そして未来の)編集委員会のみなさんに第24回女性文化賞を贈呈するしだいです。
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女性文化賞は、1997年に高良留美子さんが個人で創設され、2016年まで20回にわたってお一人で続けてこられた手づくりの賞です。「文化の創造を通して志を発信している女性の文化創造者をはげまし、支え、またこれまでのお仕事に感謝すること」を目的とし、賞金50万円、記念品として竹内美穂子さんによるリトグラフ一点を贈呈してきました。2016年第20回をもって最終回にされるとき、高良さんの「志を継ぐ方を」というよびかけに応じて、米田が2017年の第21回から上記の趣旨とどんな組織にもかかわりなく「個人の責任で選ぶ」というスタイルを引き継ぎ、第21回は千田ハルさん(岩手県釜石市)、第22回は久郷ポンナレットさん(神奈川県平塚市)、第23回は高橋三枝子さん(北海道旭川市)にさしあげました。
2020年11月24日
米田佐代子(女性史研究者)
第25回女性文化賞決定のお知らせ
第25回女性文化賞は、長野県飯田市在住の相沢莉依さんに決まりましたのでお知らせいたします。
相沢莉依(あいざわ りい)さんは、1953年中国黒竜江省双鴨山市で「中国残留孤児」だった母相沢千代子さん(終戦のとき18歳だったので「残留婦人」と呼ばれる)と中国人の父との間に生まれました。中学高校時代に文化大革命にぶつかり、「労働体験」もしながら高校を卒業して就職、その後職場推薦で哈爾浜師範学院(のちに哈爾浜師範大学)に入学、卒業後歴史の教師になり、結婚・出産を経て勤務先の双鴨山鉱務局職工工学院の弁公室長(事務長)に昇進します。しかし彼女はある日、恵まれた生活を捨てて日本への移住を決意、1996年中国人の夫とともに日本移住を果たしました(1999年にはお母さんも帰国)。「残留孤児」一世とちがい、日本を「故郷」としての「帰国」ではなく「新しい生活」への挑戦でした。
それを支援したのは日本の「残留孤児」を支援するグループの方たちです。母千代子さんの出身地はかつて「満蒙開拓団」に多くの人々を送り出した長野県下伊那地方でした。今、阿智村には「満蒙開拓平和記念館」があります。日本では中国のキャリアは通用せず、日本語は全くの外国語という現実を前に、彼女は敢然として畑違いの仕事に就き、そこで信頼を獲得して生活を築きました。そして2015年、60歳を過ぎてから飯田市歴史研究所の「自分史ゼミ」に参加、日本語で自分史『幸~幸運幸福に恵まれた平凡な人生』を書きあげて自費出版、ついで2020年には母相沢千代子さんの波乱の人生を活写した第2作『離郷ものがたり』も書きました(未公刊)。
母語ではない日本語で書かれた「母と子の物語」は躍動感に満ち、数多くの困難な体験をふくめて「幸運幸福に恵まれた」と振り返るところが自立した女性の生き方として深い感動を与えます。それは相沢さん自身の努力の賜物であると同時に、「残留孤児」支援の方々や飯田市歴史研究所のみなさん、満蒙開拓平和記念館の関係者等々の応援、仕事を確保してくれた会社などたくさんの援助があったからです。この本の最初のページに「人はひとりでは生きられません。誰かに助けられ、また誰かを助けてあげる。わたしの人生は沢山の人に助けられたからこそ幸せになった事を一生忘れない」とあり、それはかつて日中両国が戦争した歴史を繰り返してはならない、「戦争がはじまりそうになったら、私は『絶対、戦争だけはやめて下さい』と大きい声で叫びます」という結びにつながっています。こうした相沢さんの発信力と、コロナ禍に揺れる現代にも通じる人間の生き方への決意と信頼感に敬意を表し、また語りべとしての母相沢千代子さんにも感謝の意を表明したいと思い、女性文化賞をさし上げる次第です。
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女性文化賞は、1997年に詩人高良留美子さんが個人で創設され、2016年まで20回にわたってお一人で続けてこられた手づくりの賞です。「文化の創造を通して志を発信している女性の文化創造者をはげまし、支え、またこれまでのお仕事に感謝すること」を目的とし、賞金50万円、記念品として竹内美穂子さんによるリトグラフ一点を贈呈してきました。2016年第20回をもって最終回にされるとき、高良さんの「志を継ぐ方を」というよびかけに応じて、米田が2017年の第21回から上記の趣旨と、どんな組織ともかかわりなく「個人の責任で選ぶ」というスタイルを引き継ぎました。
2021年10月18日
米田佐代子(女性史研究者)
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高良留美子さん追悼―「女性文化賞」を引き継いだわたしから ◆米田佐代子 (女性史研究者・ミニコミ図書館運営メンバー)
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引き継がれる女性文化賞の志 ちづこのブログNo.111
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今年の女性文化賞が決まりました 最終回です
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第21回女性文化賞は千田ハルさん(釜石在住)に――米田佐代子
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第22回女性文化賞は久郷ポンナレットさんに決定 ◆米田佐代子
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ミニコミ図書館の縁で-第23回女性文化賞を高橋三枝子さんに 米田佐代子(女性史研究者・ミニコミ図書館スタッフ)
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第26回女性文化賞は、東京出身の吉峯美和さん
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