2011.11.23 Wed
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<目次>
Ⅰ 団塊世代の母と三十歳の娘~『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』
・親が高齢化した場合~春日キスヨ『変わる家族と介護』
・団塊の母と二十歳の娘~母娘は楽しくてたまらない『一卵性母娘』
・『一卵性』から『墓守娘』へ~十年の経過でなにがあったか
Ⅱ 『墓守娘』の、母・父・娘への処方箋~「娘」は主体性をみおとされる
・娘の「罪悪感」について
「世代の境界」が侵犯される自然さ
母は娘の領域侵犯をしても咎められない
Ⅲ 共依存の男女、DV加害者と被害者と、共依存の母娘の類似
親は自立を阻むといえるのか
娘はよい介護者になるか
逃げろといわれるDV妻、とどまれといわれる墓守娘
娘は「お断り」できるか
Ⅳ 「ハカモリ」にみる母の不自由
Ⅴ 共依存からの「回復連鎖」
Ⅰ 団塊世代の母と三十歳の娘~『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』
アルコール依存症をはじめ、家族問題のカウンセリングをしてきた信田さよ子の2008年の著作、『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』(春秋社)は、母親と成人した娘の関係の、娘にとってのネガティブな側面を描いている。(「墓守娘」というネーミングの由来はあとに記す)
ここに登場する母親たちは、主に団塊の世代が想定され専業主婦が多い。娘たちは三十歳前後で働いており、未婚の例が多いが既婚者もいる。
問題は、母親による、成人した娘への過干渉だ。これは、就職や結婚といった、娘の人生の決定事項に母親としてつい干渉してしまうとか、仕事で遅い娘に食事をつくってあげるとか、一見、ありがたいような「母の愛」だ。しかし、それがあだとなって、娘は母に束縛され、自分が設計する将来を奪われる。
・親が高齢化した場合~春日キスヨ『変わる家族と介護』
とはいえ、本書で語られる母娘たちは、健康保険適用外のカウンセリングを利用する、経済的に安定した家庭だ。娘のほうも「教育ママ」のプッシュアップの成果あってか、高学歴で仕事に就てもいる。たとえ娘が「母が重くてたまらな」いような葛藤があっても、まずまずは「幸せ」にみえもする。
この問題を、もう少し射程をひろげてみせてくれるのは、春日キスヨ『変わる家族と介護』(講談社、2010年)だろう。
こちらは、介護が必要な高齢者と家族(親子)の関係を扱っているので、特に団塊世代とその子世代ではない。しかし春日は、成人した娘と老親の関係について、『墓守娘』で信田がする考察も引用しながら、こんな説明をする。
〈親の経済力に頼る以外収入の道をもたないシングルの娘介護者は、親が死亡するまで親の「金縛り」にあって介護者役割に縛り付けられる。親が経済的に貧しいときより、ある程度経済力がある場合のほうがリスクが高い……なまじっか親に経済力があるばかりに娘は親に「金縛り」にされ、自立は日一日と先送りにされ「老いぼれていく」可能性がある/p89-90〉
春日があげる例はこうだ。
・父親が倒れ介護が必要になり、母親は病気がちで面倒がみられなかった。「親と同居中で未婚で身軽」という理由で娘が仕事をやめさせられ、介護するように。両親とも介護しつつ当面は親の年金で生計をたてているが、娘に収入の道は途絶えている。娘自身の年金も積んでいない。親には、特に娘に残すほどの財産はない。
・母親が脳溢血で倒れ、二十代から献身的に介護をしていた娘。だんだん母親の要求が高くなって仕事もやめた。十年も介護するうち、小さい頃から姑に仕えて耐える母に同情してきたが、それも母親の選んだ人生だとおもうと、介護が耐えがたくなり鬱状態に。
信田の母娘たちも、きっかけひとつで「親子の情愛」に足をすくわれ、若い日の人生の「質」ばかりか、中年期以後の人生設計そのものを崩されかねない。
・団塊の母と二十歳の娘~母娘は楽しくてたまらない『一卵性母娘』
『墓守娘』から約十年前、信田さよ子は『一卵性母娘な関係』(主婦の友社、1997)という、いまどきの仲のよすぎる母娘、「一卵性母娘」について、逡巡はしながらも、肯定する本を書いていた。
〈実は告白すれば、私自身も当初は、一卵性母娘は母子密着で娘の人生を支配する母の病理であると考えていました。しかし(編集者と話しているうち)思いもかけず「お互い楽しかったらいいんじゃない?」ということばが自分の口から飛び出たのです/p183あとがき〉
こちらの母親も団塊の世代で、娘は(十年前の本なので)20代が想定されている。
この母娘は、連れだってショッピングや旅行に行き、同じ服を着まわし、互いを親友のようになんでも話しあう。娘が結婚し家を出ても、母は娘の部屋をそのままに残すし、娘夫婦宅に家事手伝いにもいき、娘に感謝される。旧来の常識からすれば、この母娘の仲のよさは異様にみえる。
しかしそれは、〈病理現象ではなく、社会の変動に対する適応として出てきたもの/p109〉とする。
・理由のひとつは、父親が企業戦士として家をあけ、事実上の母子家庭となったこと。〈核家族は夫婦が基本ですが、その夫婦がまく夫婦を形成し得なかった…ということが一卵性母娘を生みました/p111〉
・理由のふたつめは、高学歴化しフェミニズムの洗礼を受けた団塊世代の女性には、社会へ出ようにも間口がなく(若い頃も、また四十歳をすぎればなおさら)、子どもとの関係に集中するほかなかった。
・それから消費社会の深化。〈一卵性母娘の娘は、功利的に親に合わせているともいえるでしょう。…現代のふくれ上がった消費社会では、親子でいっしょに楽しめることは消費しか残っていないのかもしれません/p146〉
とはいえ、〈一卵性母娘が「共依存」となったとき、問題が起きる/p116〉。
「共依存」とは、他者との関係への嗜癖、〈自分の安定のために他者の世話をし、支配する/p116〉ことだ。
その典型例として、夫からのDVを生きのびるうちに育まれる深刻な母娘密着のケースをあげる。
暴力に耐える生活のなか、母親は、唯一の味方であり生きがいである娘を手放せなくなり、娘のほうも、母の幸せに責任を感じ、母から離れること、母の意向に背くことに強い罪悪感をもってしまう、という。この母娘は、支配・被支配関係、「共依存」に陥っている。
また、このような暴力を背景にしなくとも、たとえば父親が企業戦士で不在がちで、家庭に孤立した専業主婦の母親が、「愛情をかける」名目のもと、娘の教育、ライフコースのコントロールにのめりこみ、「共依存」の関係に陥ることもある、という。
しかしたとえ、関係への依存症に陥っても、娘が母といて「楽しい」と感じ、また母から自由に離れてもいかれるなら、病的な状態ではない。(〈共依存の親で、とても苦しいと思っていたらそれはアダルト・チルドレンと表現できますが、支配する親であっても、娘がそれで楽しく、「好きな彼と結婚もするわ」というのなら、何も問題はない/p120〉)
つまり、母親が支配的でも、娘はそれなりに楽しく、「共存」できる場合もある。しかし、苦しく感じるなら、病的な状態と判断するべきだ。
母娘の「共存」と「共依存」のあわいは微妙なようだ。その支配が苦痛か、そうでないかは、支配する側(母親)の“統治力”にもよるだろうし、される側(娘)の感受性にもよる、といえるからだ。
信田は、『一卵性』のポジティブな面を描いた十年後に『墓守娘』を書き、そこで前著での判断を苦々しく想起する(p87)。母娘の葛藤にかかわったカウンセラーの立ち位置の揺れ幅は、母娘関係にあらわれる光と影の極端な揺れ具合と重なってみえる。
※以後、『一卵性』からの引用にのみ「i-」をつける。
・『一卵性』から『墓守娘』へ~十年の経過でなにがあったか
二十歳前後の娘と母の関係を主に扱った『一卵性』では、〈最近の母親は、娘の結婚についてもかなり割り切っています/p120〉と観察されていた。なぜなら、女性の結婚の時期も、するしないが自由にり、母親も、適齢期の娘は結婚させよというプレッシャーから解放されたからだ。
ところが、実際に娘が三十歳ちかくなると、母親達たちは「そろそろ結婚を」といいはじめるようだ。
「やりたいことをやりなさい」といっていた母親なのに「いいひできた?」(p7)。父からの暴力に懲りて「男に頼らないのがいちばん」といっていた母も、結婚をすすめはじめる(i-p29)。娘たちは、母親の変わり身に裏切られたように感じる。
では、“好きな彼と結婚もするわ”と娘がいった場合はどうなったか。
「孫がハーフなんて親戚に顔向けできない」と泣いてやめさせる(p7)。娘に相手の年収やライフプランをめぐる質問票をつきつけ、「だっていつも最悪の事態を考えてなくっちゃ」。「ママは私に幸せになってほしくないの?」と娘を泣かせる(p60)
「ハッピーな一卵性母娘」は、〈「消費」を媒体とした連合/i-p181〉といわれるような、要は、父親の財布を握る母親と、そのおこぼれにあずかる若い娘、という消費共同体、ショッピングなかまにすぎない、どのみち脆弱な絆だったのだろう。また、母親たちは、「女性の抑圧からの解放」「フェミニズムの洗礼」を肌で感じてきたにせよ、女性としての自分や娘を推し量る、社会的な分析軸や判断基準など、とくに育んではいなかったようだ。
娘が二十歳前後のころは、母との「共存」が楽しかったのが、三十歳付近から、母親に未婚の現状を、あるいは恋人との結婚を否定され、将来設計をゆさぶられ、一気に母親の存在を苦痛に感じ、「共依存」として事態が拡大してきた、そんなふうに、『一卵性』と『墓守娘』を概観できそうだ。
タグ:DV・性暴力・ハラスメント / 本 / 母娘関係