3月の終わりは孫娘の卒業式。小学6年生総勢178名、華やかな着物と袴の女の子たち、羽織袴の男の子もいて、なんだか京都風の卒業式だなあと思う。

 式の始まりは、壇上に「日の丸」、起立を促されて「君が代」斉唱。もちろん私は不起立を選ぶ。たった一人、黙って座っていた。

 はるか昔の1986年、今は廃刊になった『朝日ジャーナル』に「京都報告 日の丸・君が代の乱- かくて「国旗」がひるがえり、「国歌」が流れた」の記事を寄稿したことを思い出した。調べてみたら国会図書館にアーカイブが残っている。岡崎にある京都府立図書館を訪ねると書庫に保存されているという。早速、コピーをとって読んでみた(PDF①~④)。そのあと近くの平安神宮のお庭に立ち寄ったら紅しだれ桜が満開だった。

 1985年、全国で唯一、京都で存続していた高校三原則(男女共学、総合制、小学区制)が、市民グループの反対を押し切って廃止され、偏差値輪切り教育が京都にも導入された。ただ市立小学校の「自校方式」による学校給食は、女たちの運動と学給労の闘いで存続し、今も小学生は、できたてのおいしい給食を毎日、いただいている。

 だが当時、全国小・中学校での「君が代」実施率70~80%に比し、京都市は3%に満たなかったため、文部省からの「日の丸・君が代」徹底通知に追い打ちをかけられていた。京都市教育委員会との交渉で、その時、係長だった現・京都市長の門川大作と渡り合い、丁々発止と喧嘩したことを思い出す。

 しかし今や、何事もなかったかのように「日の丸」はひるがえり、「君が代」が流れている。


 それにまつわるオチのような話を一つ。1986年10月3日号『朝日ジャーナル』に記事が載った後、記者の方から「原稿料を5千円振り込みたいので銀行口座を教えてほしい」と電話があった。当時、43歳の専業主婦だった私は、恥ずかしげもなく、「私名義の銀行口座はありませんので、夫の口座に入れていただけませんでしょうか?」と言ったのだ。その途端、電話の向こうで記者が絶句されているのがわかった。

 それから3年後、ようやく私自身に落とし前をつけようと、夫と2人で離婚を選ぶ。家父長制のしがらみから解き放たれ、その後、1人で自由な生き方を歩むことができたのは、「うん、いい選択だったな」と今は思う。

 そして3月末、卒業旅行を兼ねて長崎へ3泊4日の旅。快晴に恵まれ、満開の桜の下、坂と石段を登り降りして連日、2万歩近くを歩いた。

 ひと月前に旅程を予約して、96歳の叔母を、その間、ショートステイにお願いしていたのだが、3月初旬に叔母が予期せぬ骨折で今も入院中。どうしようかなと迷って、私1人、キャンセルしようかと思ったが、「何かあったら急いで飛んで帰るからね」と本人と看護師さんによくよくお願いして、娘と孫と3人で思い切って出発することにした。

       大浦天主堂


 長崎新幹線の開通で、京都~博多~特急「リレーかもめ」で武雄温泉経由~長崎新幹線「かもめ号」で長崎着。

 街なかのホテルにチェックイン後、歩いて「大浦天主堂」へ。この教会は、1864年竣工の日本最古の教会建造物として「二十六聖殉教者聖堂」と名付けられた。翌1865年3月、浦上の「隠れキリシタン」たちが教会を訪れ、聖母マリア像の前でプティジャン神父に「信仰者」であると名乗り出たのが、キリシタン禁制250年後の「信徒発見」の史実とされる。

 教会に入ると、窓から差し込む陽光に、ステンドグラスの色鮮やかな色彩が、白い壁に美しく映えていた。

       グラバー邸

 そこから「グラバー園」へ向かう。「グラバー住宅」や「旧オルト住宅」の高台から港に停泊する船を眺め、「旧自由亭」の喫茶室でカステラセットを楽しむ。

 活水女子大近く、東山手の「オランダ坂」を登り降りする途中、走り寄ってきた「尾曲がり猫」を抱き上げる。長崎にはバタビア経由の船で連れられてきた尻尾の曲がった猫たちが多いのだ。

 夕刻は新地中華街「老上海飯店」で皿うどんと小籠包、春巻きを注文。皿うどんのパリパリ麵が、ちょっと甘口で、おいしい。

 その後、路線バスとロープウェイを乗り継いで「稲佐山」頂上から長崎の街の夜景を眺めて9時過ぎにホテルに戻る。

        オランダ坂

         尾曲がり猫


 2日目は赤迫行き路面電車で「出島」まで。江戸幕府の鎖国政策の一環として造られた扇形の人工島。日本が国を閉ざしていた時代、出島は貿易を通じて西洋や東南アジアに開かれていた。海外との流通を示す展示品の数々を見て、今の日本の閉じた外交や政治と比べて、なんとグローバルな世界が広がっていたのだろうと思わざるをえない。

 さらに蛍茶屋行きの路面電車に乗って「めがね橋」へ。「浜町」(はまんまち)商店街の浜屋「梅月堂」で昼食。再び電車で、1629年、福建省出身の長崎在住の中国人たちが建てたという、赤い三門の唐寺「崇福寺」の石段を登る。坂を下って電車を乗り継ぎ、次はアンジェラスの鐘が鳴る「浦上天主堂」へゆく。

「浦上天主堂」前のフルーツパーラーで一服。そこから南へ歩いて15分、長崎大学医学部通りを下って「山王神社」の「二の鳥居(一本柱鳥居)」と、原爆の爆風で焼けた後、再び芽吹いたとされる「山王神社の大楠」を仰ぎ見る。

 さらに「平和公園」に戻る。北村西望作「平和祈念像」は見たくもないので、1945年8月9日午前11時2分、その上空500メートルで原子爆弾が炸裂したという「原爆落下中心地碑」と、すぐ横に並ぶ、原爆で倒壊後に移設された「浦上天主堂遺壁」の上に聳える「ザベリオ(ザビエル)と信徒」の石像を眺める。

 最後に石橋駅まで路面電車に揺られて南山手の「祈念坂」へ。遠藤周作が、よく散歩したという急な石畳の階段を登り、洋館と教会、神社と寺が混じる、映画のロケにもよく使われる一角から夕日の海を眺めて、帰りは長崎駅へ戻ってお土産を買う。

       山王神社の大楠

        浦上天主堂遺壁

        ハウステンボス


 まあ、なんと長崎は坂と石段が多い街なのだろう。山の上に住む人たちは足腰が鍛えられるだろうけど、買い物は難儀だろうな。郵便配達や宅配便の人たちも大変だ。街なかを歩いても、路面電車や路線バスは混んでいるけど、自転車に乗る人たちは、あまり見かけなかったな、と思う。

 3日目は長崎駅から「ハウステンボス」へ。ゴンドラに乗って運河を渡り、「アドベンチャーパーク」で1時間近く待って孫は「天空レールコースター」を満喫する。お花畑やバロック式庭園と美術館をめぐり、夜は「ファンタジアシティ」で「光の3Dショー」を楽しんだ。

 最終日はホテルで朝食をゆっくりといただき、JR大村線特急「ハウステンボス」に乗って博多へ。そして新幹線で博多~京都着。京都駅は、びっくりするほど大勢の外国人観光客でごった返していた。

 ああ疲れたあ。でも楽しい旅だった。叔母も何事もなく、私たちも無事に京都へ帰ってこられて、ほんとによかった。

 さあ、4月から孫娘は京都市立中高一貫校の中学新1年生。「曲げわっぱ」のお弁当箱にママがつくってくれる、おいしいお弁当を楽しみに、早起きをして、これから始まる新しい学びを、元気よく、がんばってね。