
本書は、これまでの歴史がHis Story=彼の物語であったという女性史が登場した背景にある問題意識を共有している。男性のレンズを通して見てきたのが従来の歴史像なら、本書で明らかになるのは、そこにさらに女性のレンズを装着して見た歴史像だからである。だが本書の意図はそこにとどまらない。“大きな物語”の喪失とポストモダンの興隆によって動揺が広がった歴史研究への信頼を取り戻したいという思いも込めている。むろんポストモダンのもたらした学術的意義とその恩恵を否定するものでは決してない。実際、私自身の研究のなかにもこの理論と方法を用いた研究もあり、現在でも研究目的に適切だと思う場合は学生への指導にも利用している。ただ言語論的転回が、歴史をフィクションと同等の地位に貶める危険を併せ持っていたことは否めない。歴史学は物語から分離し科学としての確立をめざしてきたはずだったのに、一部の極端な相対主義者によって、一種の退行ともいえる状況を招いた。特に社会福祉が専門の筆者の出発点は弱い立場に置かれた人びとへの社会的対応の発展をめざすことにあったから、歴史研究が弱者に厳しい新自由主義の対抗軸とならなかった無念・無力感は今でも胸の痛みだ。
現在、このような問題意識にたった歴史学者はその限界を乗り越える歩みを進めている。本書もこの立場を採る。すなわち史実を実証的に明らかにしつつ、だがそこに対象を選び解釈する主体のレンズが影響することを自覚しながら、福祉国家の源流に焦点を絞り追究したのが本書だ。そして男性に加え女性のレンズも通して見た研究の先に、今までぼんやりとしていた福祉国家形成期の輪郭がクリアに見えるようになったのである。
本書のもっとも大きな成果は、女性男性双方のレンズを装着しTheir Storyを見たことによって、福祉国家の源流が戦時期の総動員体制のために拡張された諸方策にあるのでも、慈善事業を脱皮し大正後期に成立した社会事業の段階にあるのでもなく、その手前の明治末期の感化救済事業と呼ばれる時期にあったことを明らかにしたことである。そしてその「独立自営」の方針は現在の公的扶助の脆弱さに続いている。
筆者が歴史研究を行うモチベーションは、福祉の対極にある戦争を繰り返さない知恵を学ぶことにあるが、本書で解明されるのは社会事業の実践者や女性たちが参加や包摂の論理で、自ら戦争協力の体制に知らず知らずのうちに組み込まれていく状況である。むろん特に女性の戦争協力の道筋を説明する際に、この論理は使われてきた。しかし本書で明らかになるのは、それが戦時期ではなく、それよりはるか前の平時に準備されていたということである。二度と同じ過ちを繰り返さない知恵を学ぶために、この地点の落差の発見は大きいと考えたい。
◆書誌データ
書名 :福祉国家の源流をたどる―Her/His Story を超えて―
著者 :今井小の実
頁数 :292頁
刊行日:2023/3/31
出版社:関西学院大学出版会
定価 :4400円(税込)
慰安婦
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