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「手当て」のしかた 矢内琴江
2011.11.25 Fri
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最近、ツボ治療をしてもらうことがあった。薬の治療ではなくて、きちんと体に触れて、体の気の流れを読んで、それから、体が自分で良い状態になるように動くようにしてもらう。治療というより、「手当て」という言葉が何かしっくり来る。薬で一発痛みを取り除くとかいうのではなく、手を当ててもらうことで、後は体が応えていく。ツボ治療の初日の帰り道、すぐに効果が出るわけではないが、少し軽くなった気がした。
考えて見れば、「手」というものを私たちは侮りすぎていたのではないか。手仕事、手作業、手工芸品。「手」にまつわる言葉は、何か懐かしい響きを持つ。3月11日の地震のあと、私自身も含めて、あたふたする中で、戦後の発展のあり方、社会の仕組み、人間関係の築き方、といったものの歪みが露呈した。
熱田さんの紹介した『までいの力』(SEEDS出版、2011年)の「までい」は、本来、両手を意味する「真手」という古語で、「真心をこめて丁寧に」を意味している。飯館村が何十年とかけて地道に積み重ねてきた、「までい」という生き方の実践と思想は、現代社会の在り様を根本から問うものだ。
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茨木のり子さんは、この歪みに警鐘をならしてきた詩人かと思う。みずみずしさと、的確な鋭さをもった言葉は、悲しいかな、今の私たちに向けられているようだ。
佳きものへの復元力がないならば
それは精神文化とも呼べず
もし 在るのなら
今どのあたりで寝ほうけているのだろう
(茨木のり子「疎開児童」より)
もちろん、今回の震災以降、私たちは「佳きものへの復元力」を再確認してもいるし、そこから、新たな「精神文化」が紡がれ始めていることも目の当たりにしている。けれども、熱田さんも言うように、「脱原発」をめぐる種々の発言、「一つになろうニッポン」の震災復興は、何か胸をざわめかせる。なまじ原発反対派になってみたり、復興支援でボランティアに行ったからと言って、果たして私たちは、本当に痛いところ、「触りたくない奥の虫歯」に手がのばせていることになるのだろうか。
外科手術の必要な者に
ただ繃帯を巻いて歩いただけと批判する人は
知らないのだ
瀕死の病人をひらすら撫でさするだけの
慰藉の意味を
死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って
手を握りつづけることの意味を
―言葉がおおすぎます
といって一九九七年
その人は去った
(「マザー・テレサの瞳」より)
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地震の後、「自分に何が出来るのか」という問いが頭の中で鳴りやまず、一方で「出来ることから」という気負いもあった。そして、何より「言葉」がほしかった、この状況を描写するための、この不安を拭うための、この震災を忘れないための。その中で手にとったのが、茨木のり子『寄りかからず』だった。その中の詩、この「マザー・テレサの瞳」が、ざわつく胸を、ずきりと捉えたのだった。
この詩のもつ鋭さは、90年代の終わり、物は溢れ、医術の進歩がもたらした「安心」が当たり前と化した社会の中で、鋭いまなざしを向ける「その人」、という主題の選択からだけくるのではない。また、死者に手を添えられるか否か、という究極的な問いからでもないだろう。
むしろ、この問いに答えるよりもまず、「己の胸に手を当てよ」という静かな声が、厳密に選ばれた簡潔な言葉たちから聞こえてくるところにあるのではないか。「手当て」のもう一つのやり方。「胸に手をあてる」、落ち着いて考える。
受け止めるしかない
折々の小さな棘や 病でさえも
はしゃぎや 浮かれのなかには
自己省察の要素は皆無なのだから
(「苦しみの日々、哀しみの日々」より)
私が茨木のり子さんの詩が好きなのは、ひとり言のような言葉の軽やかさでもって、読んだ後に、胸のどこかで捉えて離れない、引っ掛かり、を作るからだ。そして何より、聞き逃し、見過ごされ、忘れさられているような事を、特別なこととして描きだすのではなく、慎ましやかに、ひっそりと光を当てるような言葉の強さにある。
長田弘さんの詩集『詩ふたつ』を久々に読んで、同じことを思った。
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指すのが、ことばだ。
(長田弘「花を持って、会いにゆく」)
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ことば、それそのものが、「手当て」になる時がある。「けっしてことばにできない思い」に、耳を澄ませ、まなざしをむけ、寄り添い、手を添えるとき。おそらく、詩人は、詩を書くことで、「手当て」をしている。そして多分、写真を撮ったり、歌を歌ったり、絵をかいたり、舞台で声をだすことで、「手当て」をする人もいる。
「手当て」は特別なことではない。誰もが、「けっしてことばにできない思い」や、「沈黙という叫び」を発しながら、もがいている。だからむしろ、人が生きていくのに、「手当て」は必要だ、繃帯と同じように、水や食べ物と同じように。
次回「「遂行的矛盾」という批判のあり方」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから
カテゴリー:リレー・エッセイ