職業看護婦の道を切り拓いた女性たちの物語
 日本における看護師(看護婦)という職業もまた、シスターフッドから生まれました。
 明治の初期、開港地横浜で虐げられている「混血児」たちを救おうと来日したアメリカ人宣教師リディア・バラは、日本に専門的な訓練を受けた「看護婦」がいないことを憂い、看護学校を設立しようと考えます。男性宣教師たちは「日本は看護婦を養える文化のレベルに達していない」と反対しますが、リディアは資金集めのため渡米し、遊説します。しかし無理がたたり、病に倒れてしまいました。彼女の遺志を受け継いだのが、日本でミッションスクール「桜井女学校(現在の女子学院)」を経営していた宣教師マリア・トゥルーです。マリアは資金を調達し、桜井女学校に附属の看護学校を設けました。第一期生として入学した8人のうちの1人が、本書の主人公大関和(ちか)です。
 
 和は幕末に北関東の家老の娘として生まれました。18歳で結婚しますが、「妾」の存在に苦しみます。当時は法的にも「一夫多妻」が認められていました(民法で「一夫一婦」制が成立するのは明治31年)。子連れ離婚を果たした和は、「一夫一婦」を夫婦のあるべき形と説くキリスト教へ入信し、廃娼運動にも積極的に関わっていきます。
 あるとき和は、牧師から「病人を真心をもって看護することほど、キリストの教えに適う職業はありません」とマリアが設立した看護学校に入ることを勧められますが、当時、看護の仕事は「不潔で、時には命まで差し出す賤業」と見なされていたため、躊躇します。和は迷いながら、マリアに誘われて横浜の貧民窟での慈善活動に参加しました。そこで目にしたのは、劣悪な生活環境、それがもたらす病、体を売るほかに稼ぐ手段のない女性たちの姿でした。マリアに「ここに必要なのは、十分な栄養と清潔な環境、そして女性たちの雇用です。それらをすべて満たすことができるのが、看護婦という職業です」と言われ、和は看護婦になることを決意します。

 和は看護学校の仲間たち、特に自分と同じシングルマザーである鈴木雅(まさ)と助け合いながら、ナイチンゲール方式の看護学を学びます。二人はともに、卒業と同時に「第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)」の看病婦取締(看護師長)になりますが、医師たちとの軋轢から退職します。
 その後、和は越後高田の女学校で舎監(寄宿舎の監督)として働きながら、廃娼運動に参加します。高田で看護婦の職を得ると、後進を育てながら集団赤痢の制圧に活躍しました。一方、鈴木雅は、看護婦が自立して働ける環境を作ろうと、日本で最初の「派出看護婦会」を設立します。その後、「派出看護婦会」は増え続け、看護婦といえば「派出看護婦」を指すほど隆盛をきわめます。しかし、女が組織を作ること、経営すること、自立することをよく思わない人々からの誹謗や中傷にさらされるなど、雅の苦労は尽きませんでした。
 助け合いながら看護婦の資格化、制度化のために奔走した和と雅は、後半生は別々の道を歩みます。和は、関東大震災の救護活動を最後に看護婦を引退し、「最初の看護婦」として名を残しますが、雅の後半生はあまり知られていません。しかし、雅がいたからこそ、和は看護婦としての生涯をまっとうできたのだと私は考えています。

 本書では、疫病の流行や戦争、大災害などを背景に、大関和や鈴木雅と関わった大勢の人たちの人生の断片を描いていますが、彼女たちの人脈が予想をはるかに超えていたため、思っていたよりも執筆に時間がかかってしまいました。しかし、史料から当時の女性たちの葛藤や苦悩、夢や友情を読み取ることはやりがいのある作業でした。前著『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』の執筆中同様、会ったこともない昔の女性たちから、たくさんのメッセージを受け取ることができました。それらをうまく表現することができていたら幸いです。

◆書誌データ
書名 :明治のナイチンゲール 大関和物語
著者 :田中ひかる
頁数 :320頁
刊行日: 2023/5/10
出版社:中央公論新社
定価 :2,310円(税込)