時代の暴風の中に立つ最新歌集

大田美和は、1980年代末に朝日新聞歌壇欄で全国の読者を獲得し、歌集『きらい』(河出書房新社)でデビューした歌人です。その短歌は、見田宗介『社会学入門 人間の社会と未来』(岩波新書)や、北村薫『北村薫のうた合わせ百人一首』(新潮文庫)に多数取り上げられています。2020年にはエッセイ集『世界の果てまでも』、2022年には詩集『大田美和詩集二〇〇四―二〇二〇』も出版しています。

本書は、愛とフェミニズム、文学と社会をテーマとし、大学で英語と文学を教え、研究する歌人の第五歌集です。2009年から2016年に制作した短歌が収録されています。2010年出版の第四歌集『葡萄の香り、噴水の匂い』から13年ぶりの歌集となりました。カバーの写真は、第二歌集『水の乳房』で好評だった、写真家の石山貴美子さんの写真です。今、この歌集を出版する意味は何でしょうか?

この歌集を出版するのに遅すぎたとは思わない。今の私たちの状況が、東日本大震災の後、どのように始まって、どのような経緯で現在のような形になったのかが個人の思考と想像力を通して、歌いとどめられているからだ。坂道を転げ落ちるように、時代も私自身の心身の老化も進んだ。今、歌人・詩人としてできることは、時代の暴風の中にしっかりと立ち続けて、人間と社会の変化の行方を冷静に見すえることではないだろうか。そして、文学や芸術を愛しながら年を重ねて生きる喜びも、後に続く世代には伝えたい。
                 「音楽祭と三つの変奏 「あとがき」に代えて」より

収録した短歌を一部ご紹介しましょう。

ケンブリッジ大学ウルフソン・カレッジでの在外研究の日々。
 ヒパチアにあらねば酔って小石投げる学生を避けて小路に入る
 前にも横にも張り出す人らの隙間縫う 折り紙のように平らな私
 漢字で書くとき伝わる何かが温かく熱くわれらの円居を照らす
 食堂も閉まる休暇の煮こごりを溶かしてくれたエスぺランチスト
 河を見たらすぐ戻るから小走りにキングス・レインの門通りゃんせ

子どもたちの巣立ちの前の家族の日々。
 あんたたち懲りないねえって頭上から悟りすました子に呆れられ
 あ、これはクマの足跡、糞などと嘘ばっかりに子は歩かされ
 君も子も眠る明け方そっと来てそっと去りゆく小さな地震

韓国への引率出張。
 翡翠色の夢にまどろむ香遠亭(ヒャンウォンジョン) 朋と散策する喜びに
 この平和手放さないで 青瓦台の見える広場で遊ぶ警備員
 ともかくも来て見てごらんウェブサイトのぴかぴか光る語に騙されず

中年の職業人としての日々。
 もう死ぬな ステッカー貼って歩きたい 誰もが倒れそうな雑踏
 いい人になるしかなくていい人を三日つづけて四日めの雪
 頼まれて火中に入る 拾う手を光る火薬でコーティングして
 ぶら下がる紐がちぎれて落ちてゆく 一番黒い枇杷の葉をくれ

今を生きる学生たちの点描。
 嫌いな奴にも嫌われたくないって何なんだLine世代のああ面倒くさ
 ああこれがぼっち飯かよ 昼過ぎの便器に弁当ケースが泳ぐ
 留学生は声がだんだん小さくなり声出さなくなりニホン人になる

戦争法案に反対する市民運動「女の平和」に参加し、国会正門前に通った日々。
 文学を両手で握りしめるだけ 無力なわたし「無名者の歌」
 ずぶ濡れの発煙筒のような詩をかかげて暗い正月歩く
 従軍看護婦九十歳の母のため代わりに来たと問わず語りに
 「道を開けろ」と十回続けて諦める 暴徒とならず市民のままで

芸術とは何か。一首目は、評論家海上雅臣の率いるシャルジャ・ビエンナーレ・ツアーに参加して、井上有一と、イラク出身のハサン・マスウーディの書を見た感想です。
 パリの水に洗練された書を捨てて勝負してみろ 有一が誘う
 切れた油に思いのたけが注がれて煤けたランプが光り続ける
 遠いので千年前に死んだ人の苦しみがいま瞬いている

空港で見た移動を阻まれる家族の姿、不法入国者収容所の処遇に抗議するデモ、ドバイの出稼ぎ労働者たち、モンゴルの砂漠を疾走する運転手、東京大空襲と世界平和の夢、朝鮮学校訪問、四国の小村から発せられ国会正門前で掲げられた「こんな日本にするために戦死したんじゃない」という言葉――この歌人の仕事においては、一見関係のないものが次々につながることによって、世界が広がっていき、その歌の言葉とたまたま出会った人の心の中に何かが生まれます。この歌集の世界の全体像を一言で言い表すのは、著者本人にも容易なことではありません。しかし、それこそ、一瞬の消費では終わらない、今を生きると同時に永遠を志向する、文学や芸術の営為というものなのではないでしょうか。

385首の中からあなたの心に残る一首を見つけて下さい。


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