このシリーズは女性の作家、主に海外の「少女小説」といわれる作品の作者たちにフォーカスし、女性が作家として認められなかった時代、19世紀初頭から21世紀にかけてジェンダー規範と闘った女性作家たちの足跡を紹介していきます。彼女たちの不屈の精神なくては、女性は作家としての地位が認められず、作家という職業も確立できなかったはずです。
今日の文壇において、女性が多くの文学賞をことごとく受賞する背景には、男性優位社会に挑んだ、彼女たちの精一杯の努力、抵抗があったことを忘れてはならないと思います。
➀メアリー・シェリー 処女作は夫の名前で
「私が書いたんです。女には書けないとお思い?
女は喪失や死や裏切りと無縁だと?
作品の中身で判断されたらどう? 性別じゃなく」映画『メアリーの総て』から
これは怪奇小説『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリーが、20歳の若さで書き上げた作品を抱え、出版社に売り込みに行ったときの言葉です。映画の中のセリフですが、
メアリーはなぜこんな胸のすくような啖呵を切ったのでしょうか。
メアリーの夫はイギリスを代表する著名な詩人パーシー・シェリーでしたから、当時の男尊女卑の英国社会では、女性が物を書くことなど思いもよらず、夫が書いた作品と編集者に疑がわれたのは当然かもしれません。『フランケンシュタイン』(芹澤恵訳・新潮文庫)によると、初版は1818年に出され、その序文には夫のシェリーの名前があり、1831年改訂版の前書きにやっとM.W.Sと記されています。その間パーシー・シェリーは1822年イタリアでボートが転覆し溺死しており、夫の死後メアリーはようやく文壇に認められたということになります。初版から13年を経た1831年の第3版の前書きには、夫シェリーが激励してくれたものの、「ただし、作中のどの出来事も、どの人物のどの感情の起伏についても、決して夫の助を得たものでないことをここにお断りしておく。」とあります。この一文をつけ加えなくては、メアリー・シェリーの自尊心が許さなかったのでしょう。

そもそも『フランケンシュタイン』とはどんな作品なのでしょう。名前は知っていても、小説を読んだ人はそう多くないようです。しかも私も誤解していたように、「フランケンシュタイン」は、あのおどろおどろしい怪物の名前ではなく、怪物を創りだした博士の名前なのです。
その若き科学者ヴィクター・フランケンシュタインは、人体の構造や生命の神秘に迫る研究に打ち込み、ある日生命を持たぬ身体に生命を与える実験に成功したのですが、その結果怖しい面相、醜い容貌の怪物を産み出してしまいました。それ以来、最後まで名前さえ与えられなかったこの「怪物」は、人々から疎まれ、みじめさ故に孤独に耐えられず、博士の行く先々で害をなし、悪行を重ねていきます。フランケンシュタイン博士は、この「怪物」に家族や親しい友人、最後は最愛の妻まで殺され、復讐心と憎悪に突き動かされながら、「怪物」を探し求め、旅を続けるうちにとうとう力尽きてしまうのですが・・・。
『フランケンシュタイン』は現代社会で問題とされるルッキズムを助長していると捉えられることがあります。ルッキズムとは容貌や容姿などの外見に基づく差別意識や偏見のことを指しますが、作品を読み進んでいくうちに、読者はフランケンシュタイン博士よりも、「怪物」自身の生い立ちの不幸に同情を禁じえず、その悲哀に強く寄り添うことになります。そこが、単なる怪奇小説にとどまらず、この作品が後世にも評価された理由の一つでしょう。
メアリー・シェリーの実父は自由恋愛を唱えた急進的な思想家ウィリアム・ゴドウィン、母はフェミニズムの先駆者で、『女性の権利の擁護』を著したメアリ・ウルストンクラフトです。
母のウルストンクラフトは暴力を振るう父親の威圧的な態度を嫌い家を出て、1787年『少女の教育についての論考』を発表し、当時の知識人、急進的思想家たちと交流する機会を得ていました。1797年には、ウィリアム・ゴドウィンと知り合い、一子を設け、結婚。同年8月に生まれた娘がメアリ・ウルストンクラフト・ゴドウイン、後のメアリー・シェリーでした。この時母は出産の数日後産褥熱で亡くなっています。メアリーは二人の連れ子のある継母に育てられましたが、折り合いが悪かったようです。実母には強い尊敬と思慕を抱いていて、本好きなメアリーは父たちの議論に耳を傾け、聡明で自立心の強い美しい少女に成長していきました。
1814年、父の経営する書店を訪れた著名な詩人のパーシー・シェリーとメアリーは、すぐさま恋に落ちます。恋多き奔放なパーシー・シェリーは名門の出で、すでに妻がいたため、父親ゴドウィンの反対に会い、二人は駆け落ちをしたのですが、生活は経済的にも厳しく、メアリーは奔放な夫の行動に悩んでもいます。翌年メアリーは生まれた子どもを生後まもなく失くし、父との和解もできずに苦しい状態が続きました。
そんな最中、二人はパーシーの友人たちと一緒に詩人のバイロン卿に招かれスイス、レマン湖のほとりの別荘で過していました。1816年のある嵐の夜、バイロンは「それぞれ一作ずつ幽霊物語を書いてみないか?」と持ち掛けます。その夜メアリーは、夫とバイロンの生命に関する科学談義から着想を得たものの、大した話も浮かばず、眠れぬまま過ごすうち、恐怖の幻影を見たのです。そして次の日メアリーが書き始めたのが『フランケンシュタイン』でした。その後英国に戻ったシェリー夫妻は、メアリーの異父姉ファニーの服毒自殺、パーシーの妻ハリエットの入水自殺などにより、厳しい世間の非難を浴びました。そのため、父ウィリアムはついに二人の結婚を認めています。メアリーが『フランケンシュタイン』をようやく書き上げたのは、レマン湖の夜から2年経過していました。
三人の子どもを次々と亡くし、パーシーとも死別したあと、メアリーは精力的に小説、伝記、紀行文などを執筆し、残された1人の子どもパーシー・フローレンスとの生活を支えたと言われています。そして1851年53歳で亡くなるまで、波乱に満ちた生涯を送りました。
なお、『フランケンシュタイン』出版の翌年、メアリー・シェリーは父と娘の近親相姦的な異常な愛情を描いた小説『マチルダ』を書いていました。しかし、この作品は父ゴドウィンが原稿を預かったまま返さなかったので、1959年まで出版されなかったということです。
メアリー・シェリーは、20歳にして「喪失や死や、裏切り」を体験していました。映画の脚本家は、メアリーなら「性別でなく作品の中身で評価して」と言うに違いないと考え、代弁したのでしょう。メアリー・シェリーは生涯身をもってジェンター規範に抗った女性、女性作家としての先駆者だったのです。
☆木村民子☆エッセイスト
元区議会議員、元和洋女子大学非常勤講師、NPO法人理事、内閣府男女共同参画推進連携会議議員、子どもの本の研究がライフワーク。主な著書『100歳までに読みたい100の絵本』『少女小説をジェンダーから読み返す』などがある。
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