②ストウ夫人  台所から黒人奴隷を解放

「なるほど、あなたがこの大戦争を起こしたかわいい女性でしたか」
『アンクル・トムの小屋』旺文社文庫の解説より

 これは米国のリンカーン大統領が、ホワイトハウスで『アンクル・トムの小屋』の作者ストウ夫人に挨拶したときの最初の言葉です。南北戦争のきっかけになったと言われるこの本の作者に対して、リンカーンはこのような言葉をかけずにはいられなかったのでしょう。ストウ夫人が『アンクル・トムの小屋』を出版したのは、1852年41歳のときでしたから、すでに10年を経ていました。
 この出会いの前年、1861年に南北戦争が勃発、北軍の勝利を確信したリンカーン大統領は1863年に「奴隷解放令」を発布し、1865年南北戦争は終結しました。リンカーンはその5日後、観劇中に俳優のJ.W.ブースに狙撃され命を落としたのでした。

 ハリエット・エリザベス・ストウは、1811年アメリカ合衆国北部コネティカット州のピューリタン的な家に、4女として生まれました。父ライマン・ビーチャーはボストン出身の厳格なカルヴィン主義の牧師で、母はハリエットが5歳の時に亡くなっています。父が翌年再婚すると、次々と異母弟妹が生まれましたが、1832年父が神学校の校長に任命されたため、一家は、奴隷制度反対の中心地シンシナティに移住します。ハリエットは小さい頃からが本が好きで、教師の姉キャサリンの助手として働きながら、懸賞作品を書いては応募していました。

 ハリエットが結婚したのは25歳の時、夫となった人は先妻と死別した神学校の教授カルヴィン・ストウで、学者の乏しい収入では、暮らし向きは楽ではありませんでした。その年すぐに双子の娘が生まれ、彼女は以後7人の子どもに恵まれたものの、37歳で赤ん坊をコレラで亡くし、46歳で長男の急死に遭い、さらに次男は南北戦争に志願しアル中になるという、不運にも見舞われています。
 ストウ夫人が主婦として子どもたちの母親として、日々の暮らしに追われながらも文章を書き続けたのは、その原稿を売って家計の足しにするためでした。姉の勧めで出版した処女作には副題として「まだ不慣れな若い母親で主婦である女性が書いた」とつけられていたそうです。ベストセラー作家となっても、夫が牧師を辞めてからは、彼女は家父長として筆一本で暮らしを支えなければならなかったのです。

 夫婦で南部を訪ずれた際、黒人奴隷の悲惨な実態を見て衝撃を受け、その他にも夫と一緒に黒人少女の逃亡を助けた経験は、ストウ夫人に強烈なインパクトを与えたと思われます。彼女の家は逃亡奴隷たちの「地下鉄道」の駅になっていました。折しも1850年、黒人奴隷の逃亡を取り締まる「逃亡奴隷法」が制定され、米国内での奴隷解放運動は次第に激化していきましした。彼女の義姉イザベラ・ビーチャーから「もし、私があなたのようにペンを使えたら、奴隷制度は何といまわしいものかと全国民に感じさせることをなにか書けるのですが」という手紙を受け取ったストウ夫人は、使命感に燃えます。この時ストウ夫人は40歳を超えていました。そして、ストウ夫人は、敬虔なクリスチャンの黒人奴隷トムが冷酷非情な農場主の虐待を受け命を落とすというストーリーを描き、奴隷制度を告発したのです。1851年から雑誌に連載を開始し、翌年単行本として出版されると、1年間で30万部売れたという大ベストセラーとなり、海外でも大変な評判を呼びました。50万の英国の婦人たちが奴隷制廃止誓願の署名簿二つ折版26巻をストウ夫人に送ったことが伝えられています。(英国では1833年に植民地における奴隷制廃止法が成立しています。)
 南北戦争以後は、私財を投げ打ち、夫婦でフロリダ州に小さい教会兼学校を造り、黒人や白人の子弟を集めて教育を施したそうです。夫の死後も、ストウ夫人は85歳で亡くなるまで黒人教育に身を捧げたのでした。

 日本でも、この『アンクル・トムの小屋』は児童書などに翻案され、よく知られていますが、原書は、上下合わせて44章にもなり、全編に聖書の言葉が引用され、信仰心篤き黒人トム老人によるキリスト教の教えが語られ、かなり難解です。文学的価値を問われれば、「筋の立て方も拙劣であり、人物描写の非個性的で類型的なことは驚くべきである」と酷評する批評家もいたようです。確かに私も大げさな表現や事細かな描写に閉口し、読むのに疲れました。
 それでもこの作品が感動を呼ぶのは、近年翻訳(光文社文庫)を試みた土屋京子が言うように「勇敢にもペン一本でもって奴隷制度の非人道性を訴えようとした著者ハリエット・ビーチャー・ストウの魂が発した渾身の叫び」があるからでしょう。同様に、フランスの女流作家ジョルジョ・サンドはストウ夫人を「文学的ではないが、人道主義が必要とするような天才である」と評したそうです。

 『アンクル・トムの小屋』以後、敬虔なカトリック信者であるストウ夫人は多くの作品を書いていますが、モラリストとしての姿勢が強く、離婚を戒めたり、女性参政権論者への風刺もなされています。
 村岡花子は旺文社文庫の巻末に「『アンクル・トムの小屋』を読んで」と題し、「女流作家とは言っても、そう次々に作品を発表する華やかな存在ではなく、教授の妻として子どもらを育て、家事の切り盛りに忙しい身であった。こういう点、わたしは彼女の生活ぶりと共鳴するものを少なからず持っている」と同情を寄せています。ストウ夫人にとって、「母であり、妻であることが女性の役割で女性の義務であること」は、ゆるぎない信念であり、「ストウ夫人はあからさまな女性の権利獲得よりも、男性を優しく補佐することこそ女性の役目だと考えていたらしい」と文庫本の翻訳者大橋吉之輔も解説しています。

 そうであれば、ストウ夫人は女性に課せられた役割と作家という職業の両立に悩まなかったのでしょうか。彼女は女性として期待される役割、妻、母としての務めを果たそうとしながら、「結婚生活は絶え間のない失望と疲れ、消耗する日夜」であったと夫への手紙で吐露しています。父、兄弟、夫がすべて宗教家という家庭環境にありながら、聖職者や家父長批判も熾烈で、内部告発と受け止められかねない発言もしていました。実際彼女は「家父長制度の光と影を描く短編」を書こうと考えていたのです。「男であり牧師である人物に公然と挑戦する女の厚かましさ」を夫カルヴィン・ストウ氏は苦々しく思っていたのかもしれません。それらの原稿を夫はほとんど読みもせずに火箸で炉へくべて処分していたと伝えられています。

 彼女は作家として確立したい、自己を解放したいと願っていたにも関わらず、ジェンダー規範に縛られ、自己を確立しようとすれば、自己矛盾を起こさずにはいられなかったと思われます。それが自ずと家父長批判に繋がっていたのでしょう。
 「私が計画したことは全て妨害され、私の道は閉ざされていたのです」と彼女は嘆いていますが、後世、その道は少しずつ開かれてきたのではないでしょうか。
 ストウ夫人は筆一本で家計を支えた職業作家として、その後に続くオルコットやモンゴメリらにとって憧れであり、さらに当時の男性優位社会のジェンダー規範に抗って書いた先駆者でもありました。

*ところで、男女同権が進んでいなかった20世紀後半まで、ストウ夫人と表記されていましたが、現在では夫人をつけず、ハリエット・ビーチャー・ストウと一般的に表記されるようになったそうです。ストウ夫人も自分の著作に対して、実名を使うことは許されなかったのです。

★ストウ夫人 (ハリエット・ビーチャー・ストウ)1811-1896
参考
 『アンクル・トムの小屋』上下 旺文社文庫 大橋吉之輔 訳
 『アンクル・トムの小屋』光文社文庫 土屋京子 訳

☆木村民子☆エッセイスト

元区議会議員、元和洋女子大学非常勤講師、NPO法人WABAS理事、内閣府男女共同参画推進連携会議議員、子どもの本の研究がライフワーク。主な著書『100歳までに読みたい100の絵本』『少女小説をジェンダーから読み返す』などがある。

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