20240227 アドバンスコース受講レポート 永野眞理
早いもので、アドバンスコースのゼミも残り1回になってしまった。えっ?、本当に11回受講してきたの?…と、トップと2周も3周も遅れている私はかなり焦る。
今回は「目次」のリベンジと「オーラルプレゼンテーション」。一度提出した目次を書き直したものを講評いただく受講生と、これまで書いて来た論文の概要をパワーポイントで説明し、講評を戴く受講生。
「目次」を作ることは、かなり神経を使うもの。リベンジは、先生のアドバイスを咀嚼して七転八倒の成果が凝縮されたもので、この先ドンドン書き進めそうな予感までしてくる。
オーラルプレゼンに参加した受講生は、ほぼ論文が完成している方たち。ただただ羨ましい思いで聴かせて戴いたが、その裏にはとんでもない時間と、頭と、労力が隠れている筈。彼女たちのプレゼンを参考にさせて戴いて、自分の論文作成に繋げたい。
上野先生のアドバイスは、他の方に対するものであっても自分の論文に十二分に参考になり、指標になるもの。それをどう自分の論文に応用できるか?、が試されている気すらしてくる。「先生は、私より、私の書きたいことが分かっていらっしゃる」という驚きは、恐らく受講生全員のものだと思うが、その為にお忙しい先生がこのゼミに掛けて下さっている時間と労力には本当に頭が下がる。それは、wanの「女性学ジャーナル」はじめ、様々な媒体に「情報発信をして欲しい」とお考えだから、とも思う。
経験に裏打ちされた当事者の言葉は、大きな説得力を持つ。今回の論文の中にも当事者視点のものがいくつもあるが、「女性の経験の言語化と理論化」が女性学であるなら、学問の世界に身を置かずとも論文を書き、発表の機会が与えられることは女性学研究の蓄積に貢献することに他ならないのではないだろうか。論文を書くことは恐らく、自己の問いを解いていく過程で自己と向き合い、自己を問い、納得できる落としどころを探していくことだと思うので、そのこと自体が一つの「当事者研究」である様にも思う。
今はまだ、「論文を書くことは楽しい」とは口が裂けても言えないほど追い詰められ、苦労しているが、自分の違和感や怒りからの「問い」を解き、「自分自身を問う」論文作成の成果物は決して「論文」だけではない、とつくづく思う。
先生のご苦労に報いられるような論文を書きたい…と、身もだえしながらPCに向き合う毎日だが、それでも、こんな機会を与えて戴けたことには感謝しかない。
甲斐一再
フェミ塾入門塾のときから毎回ずっと続いていることは、講義中のうえの先生の指摘、問いが終了後もしばらく頭を巡るということです。それだけ1回1回が濃い時間なのです。
入門塾で印象的だったのは「あなたは何者だ?」でした。この問いは今でも私の中で大きなテーマとして残っています。そして今回のうえの先生からのギフトは「それは強者の理論だ」でした。
世の中は今でもなお「おまえ(女)の生きづらさはおまえ(女)の問題である」とすり込みがあります。社会や学問が男性中心、男性有利なんてことは女の勘違いだとあらゆることが覆い隠されていることに憤りを感じます。ジェンダーに限らず社会の構造の中でうみだされる強者と弱者、その構造に怒りを覚えます。私はそれを原動力に修士にすすみ、フェミ塾にも参加して学びたいと思ったのでした。<<弱者が弱者のまま尊重されること>>を望んだからです。
それを忘れていたつもりはありません。しかし、今回うえの先生のこの一言であらためてハッとさせられました。自分がマジョリティ側であるときは、気付かない、気付こうと出来ない事がある。私にだって言い分はある。そりゃそうだ。誰にだって言い分はある。でも私が今置かれている立場でその言い分を言うことが、構造の中で相手にどのような影響力があるのか、そして構造をより強化してしまっているのではないか。そういう事を考えさせられました。
私のメインのテーマは対話です。動物にはできないこと。人間だからできること。それが対話です。対話は傾聴とも違います。対話は2者が対等でなければなりません。互いが互いの声を聞き互いが納得出来るゴールを目指します。しかしジェンダー対話というのは非常に難しい。なぜなら女性が今もケアする役割を引き受け、男を立てる存在だからです。現状日本の社会はジェンダー対等にはほど遠いと言われています。対等でない2者間では対話は成り立ちません。「強者の理論」が発動するからです。つまり、残念ながら男女の対話は成り立たないという結論になるのです。
私たちは人間であることを諦めるしかないのでしょうか。アドバンスコースの中でうえの先生とのやりとりを重ね、自分の中でこの結論に行き着いた時は少し絶望もしました。しかし、必ずしも全てのジェンダー対話が不可能でないことはフェミ塾が証明してくれたとも思っています。女性も一枚岩ではないが、男性も一枚岩ではない。性別が男性か女性かではなく、人として対話をしようとする人びとがうえの先生の元には集まっています。私は対話をテーマにする小さな情報発信者として、この事実を発信出来るようになれればと願っています。そのための第一歩として、うえの先生の愛が詰まったWANACを寂しいけれど卒業し、この先も文章を書いていきたいと思います。
第十回レポート https://wan.or.jp/article/show/11047
第九回レポート https://wan.or.jp/article/show/11002
第八回レポート https://wan.or.jp/article/show/10950
第七回レポート https://wan.or.jp/article/show/10897
第六回レポート https://wan.or.jp/article/show/10842
第五回レポート https://wan.or.jp/article/show/10810
方法論ゼミレポート https://wan.or.jp/article/show/10802
第四回レポート https://wan.or.jp/article/show/10754
第三回レポート https://wan.or.jp/article/show/10714
第二回レポート https://wan.or.jp/article/show/10645
第一回レポート https://wan.or.jp/article/show/10703