「あたしがものを書くのをあなたは好まないんですもの。あたしはきっと一生結婚しないわ。このままで幸せだし、だれかのために自由をあきらめるなんて、今はしたくないもの」
『若草物語』ジョーの言葉より
『若草物語』の第2部で、ジョーはマーチ家の隣の家の青年ローリーのプロポーズをこう言ってはねつけます。『若草物語』の第1部はマーチ家の4姉妹の青春篇でしたが、第2部は戦争
が終わって、舞台のマーチ家では父親も戻り、適齢期の娘たちの結婚をめぐる様々な葛藤を描いています。長女メグは結婚し幸せな家庭を築きますが、2女のジョーは作家の道を目指し
、3女ベスは病に倒れ他界、4女エミーは画家を目指して単身ヨーロッパに渡り修業という、それぞれの旅立ち、人生が描かれています。
他方作者ルイザ・メイ・オルコットは、このヒロイン・ジョーの言葉「ペンを夫にした物書きのひとりもの」の通り、一生結婚しないで独身を通しました。
ルイザが小説家として成功したのは、南北戦争がきっかけでした。当時の米国は奴隷制廃止や女性の権利獲得について賛否両論が渦巻いていました。1850年に「逃亡奴隷法」が制定され
ると、それに反対する機運が高まっていき、ルイザも連日のように講演会や反対集会に参加しています。ハリエット・B・ストウの『アンクルトムの小屋』をルイザは若いとき愛読していた
そうですから、彼女の正義心にも火がついたのでしょう。
もともとルイザの家庭はラルフ・W・エマソンやヘンリー・D・ソロー、ナサニエル・ホーソンなどボストンの知識人や文化人とも家族ぐるみで深い付き合いがありました。父親のブロ
ンソンは、教育者でありなから多情な熱血漢で、奴隷を解放するために警察と市民軍が争った暴動の渦中にいて流血騒ぎを制したといわれています。一方母親のアッバ・オルコットは社会運動家で
あり、婦人参政権獲得運動にも力を注ぎ、1848年の女性の権利宣言で有名なセネカ・フォールズの会議にも参加しました。こうした両親の元でルイザは1832年2番目の子として生まれ、父からは厳
しくしつけられ、母からは人への優しさと広い視野を学んだのです。しかも生活力のない父に代わり、ルイザは早くからお針子やメイドまでして家計を助け、作家と認められてからはペン一本で家
族を養っていました。
さて、1861年リンカーンが大統領になると間もなく南北戦争が勃発します。ルイザは日記にこう書いています。「わたしはこの目で戦争を見たいと何度も思ってきた。いまその願いが叶う。男になりたいけれど、女のわたしは武器をもっては戦えないので、せめて戦う人のために働くことで満足しようと思う。」
軍の病院で志願看護婦の募集があったとき、ルイザは30歳になっていましたが、もはや銃後の守りだけでは我慢できなかったので、看護婦に志願しワシントンに赴きます。しかし、過酷な看護婦生活は長くは続かず、ルイザは2か月で腸チフス性肺炎を発症し、父の迎えで自宅に帰ることを余儀なくされたのです。危機的状態から脱すると間もなく、ルイザは「お金目当て」で書いた「病院のスケッチ」を連載します。これが本になると売れ行きは好調で、思いがけなく多くの印税も得ることができました。「1年前はわたしに原稿を頼む出版社はなかった。わたしがお願いをしてまわった。それがいまなんと三社から依頼がある・・・十五年間こつこつと懸命につづけてきたことがやっと実を結ぶのかもしれない」とルイザは感慨深く日記に記しています。
ルイザは作家の道を歩むため結婚はしないで独身を貫きましたが、さらに続く『若草物語』の続編のジョーはベア先生と結婚します。そして、2人で学園を経営し2人の男の子の母となり、恵まれない少年少女たちの母親代わりを務めます。結婚が唯一の選択肢だった当時の女性たちの生き方をルイザは、最終的に認めざるを得なかったのでしょうか。
文献によると、ルイザと同時代に活躍した女性で詩人のジュリア・ウォード・ハウがいます。ジュリアは1819年ニューヨーク市で生まれ、外交官や政治家、州知事などを輩出した名門の出で、父親は裕福な銀行家でした。母親は彼女が5歳の時に亡くなったものの、幼少から4ヵ国語を学び、恵まれた教育環境にあったと思われます。
ジュリアの夫のサミユエル・グリドレイ・ハウは医学博士で盲学校の初代校長も務めていました。夫は奴隷制反対者のジョン・ブラウンを支えた「秘密の6人」と言われ、ジュリアも夫と共に北軍衛生局の資金集めのためボストンにある慈善市に協力していたそうです。ただジュリアは結婚前にすでに著書があったにもかかわらず、夫のハウ博士は結婚後も著作することを反対していました。夫との間に5人の子を設け、家事育児に日々を費やす中、多数の随筆や自叙伝、戯曲を表し、後に南北戦争北軍の軍歌「リパブリック讃歌」を作詞したと伝えられています。ハウにとっては書くことは夫との確執に対抗する戦いでもあったのでしょう。ハウは南北戦争終結後は女性参政権や社会問題についての発言をしています。
ボストンで下宿していたとき、ルイザは師と仰ぐセオドア・パーカー牧師の集まりで、このジュリアに会っていたようです。また1857年5月のルイザの日記には、父が講演したときの集会
で「よき集まり、エマスンさんやミセス・ハウ」とだけありましたが、何らかの交流があり、年若いルイザは刺激を受けていたことが窺えます。
ほぼ同時代の詩人としては、エミリー・ディキンスンを忘れてはならないでしょう。
エミリー・ディキンスンは1830年生まれ、ボストン近郊のアマーストの生家で生涯を送り、世に知られることもなく、1886年、55歳でひっそりと独身のまま生を閉じました。エミリーの祖父はアマースト大学創設に尽力した名士で、エミリーの父親も、理想家肌の人でした。国会議員まで勤め、精力的な活躍ぶりで財をなし、一時祖父が手放した邸宅を買い戻しています。
ルイザや、ハウが戦争を肯定的に見ているのに比べると、エミリーは「戦争はわたくしには斜めの場所に思えます」と冷めた目で捉えています。政治家の家庭の中で、エミリーは国政に強い関心を抱きつつも、娘だから、女性だからと政治の話題から外されている不満をもらしていました。「わたしはこの国が本当に嫌い、これ以上長くはないでしょうよ」と友人に宛てた書簡が残っています。 アマースト大学では、新島襄や内村鑑三も学んでおり,無教会主義の信仰が主流でしたが、当時教会を中心とする信仰復興運動が波及してくると、エミリーはこれを拒絶しました。そのためアメリカ最初の女子大学マウント・ホリヨーク女学院に進学したものの18歳で退学します。それまでは活発な話好きの恋多き女性だったと伝えられていますが、それからは家にひきこもり母親代わりに家事に専念し、晩年は眼病を長く患い55歳で永眠しました。エミリーが生前書いた詩1775編の殆どが、死後発見されましたが、26歳の頃人知れず書いていた数編の詩の草稿集が見つかっています。また、生前に出版された10編の詩は、どれも匿名で発表されていたそうです。
オルコット家が一時住んだコンコードのオーチャードハウスとアマーストのエミリーの生家はそう遠くありませんでしたが、ルイザもエミリーも直接言葉を交わし、交流したかは定かではありません。ただ、エミリーの友人のノアクロス姉妹はコンコードに住んだこともあり、この姉妹を介して文学的交流があったのでは推察されています。エミリーの三編の詩が掲載された「ドラム・ビート」の紙面にはルイザも作者として名を連ねていました。
ルイザもエミリーも生涯独身を貫き、創作活動に身を投じました。ルイザはペンひとつで生きる糧を得るために、ジュリアは家庭の中から社会を見つめ、エミリーは詩の世界で精神の自立を求めて、奇しくも同時代を生きました。ルイザ、ジュリア、エミリー、それぞれの道は違っても、精神の自由だけは手放さなかったのです。
「訪れるのは このうえなく美しきものたち
そして仕事は———小さい腕を精いっぱい伸ばして
摘み集めていくの 楽園を」エミリー・ディキンスンの詩
(2018年、私はこのエミリー・ディキンスンの記念館を訪ね、近くの墓地で眠るエミリーの墓にお参りをした)
★ルイザ・メイ・オルコット(1832-1888)
参考『ルイ-ザ・メイ・オルコットの日記~もうひとつの若草物語』宮木陽子 訳 西村書店
『ルイザ~若草物語を生きたひと~』ノーマ・ジョンストン著 谷口由美子 訳 東洋書林
『続・若草物語』谷口由美子訳 徳田秀雄絵( 講談社 青い鳥文庫)
★ジュリア・ウォード・ハウ(1819-1910)
★エミリー・ディキンスン (1830-1886)
参考『エミリ-・デイキンスンの詩集』 内藤里永子編・訳 KADOKAWA
「斜めの誠実―南北戦争とエミリー・ディキンスン」金澤淳子著