不思議な本である。文庫版解説者の戸邉秀明さんが「風変わりな本」と書いているとおりに。著者の西川祐子さんはフランス文学研究者、日本女性史研究者、高群逸枝や岸田俊子などの評伝作家、文学批評家など多彩な顔を持つ。本書はそのすべての顔が統合し、「文学史」とはいいながら、文学批評でもなく、家族史でもなく、また家族を容れる器である住宅をめぐる建築史でもなく、そのすべてでもあるような浩瀚で名づけようのない「不思議な」作品になっている。扱うテキストは文学作品だけでなく、漫画、ドキュメンタリー、翻訳書、評論などさまざま。解説の戸邉さんも日本近代史家である。どのジャンルにも入らないということは、この作者がジャンル越境的であったことを示すだろう。
 著者は冒頭でこう宣言する。「近代百三十年のあいだに日本語で書かれた大量の文学作品を一つテキスト、集団制作による大河小説として連続して読むことはできないだろうか」。その大河小説のキーワードは家と家族である。1998年刊の『借家と持ち家の文学史』(三省堂)からおよそ四半世紀、旧著をここで紹介するのは、このたび本書が第4章「文学は、大河から海へ向かう」と解説を加え、増補新版として刊行されたからである。
 近年では文学作品を対象に、「望まない妊娠」をキーワードとして近代小説を読み通す斉藤美奈子の『妊娠小説』や、ケアをキーワードとして東西の文学を読み直す小川公代の『世界文学をケアで読み解く』などの領域横断的な評論が生まれているが、本書はその先駆的な試みであると言えよう。
 近代日本の大河小説は、著者によれば「いろりのある家」からスタートして「茶の間のある家」そして「リビングのある家」へ、さらには「食卓のない家」や「漂流する部屋」にまで変化してゆく。男性作家は「家を建てる話」や「家を守る話」を、女性作家は「家出小説」を書いてきた、という指摘も鋭い。
 わたし自身も建築や住宅には人並み以上の関心を抱いて、『家族を容れるハコ、家族を超えるハコ』(ハコとは住宅を指す)(平凡社)という本を出したが、いまや家は家族のハコではなくなったようだ。
 副題の「『私』のうつわの物語」というのは、最後に個人のスペースだけが---たとえそれがカプセルホテルやネットカフェの一室であっても---残る、という意味だろうか。私小説は家族の物語だったが、その家族は家から出て家庭をつくり、それさえ脆く壊れて、そこから押し出される個人が漂流し、やがて血縁によらない「偶然の家族」をつくることもある。その「偶然の家族」もまた離合集散を繰り返す。そうやって「家族の物語」は大団円へと向かうのだろうか?
 そう思えば最終章の「文学は、大河から海へ向かう」のタイトルは暗示的である。その海には、暗い海面のうえにひとりひとりの頭が孤独に浮かんでいるように見える。
 この書評をわたしは痛切な思いで書いている。戸邉さんの解説は大河から海へ向かった後、「そこでどんな光景に出くわすのか、その景色を著者とともに見続けたい」と書くが、病に倒れた西川さんとそれを共にすることができないかもしれないからだ。彼女が成し遂げた偉業がどんなものか、このずっしり分厚い文庫を手に取って、読んでもらいたい。
(熊本日日新聞2023年12月3日読書欄「上野千鶴子が読む」から許可を得て転載)

◆書誌データ
書名 :[増補]借家と持ち家の文学史:「私」のうつわの物語
著者 :西川祐子
頁数 :496頁
刊行日:2023/11/6
出版社:平凡社(平凡社ライブラリー)
定価 :2420円(税込)

増補 借家と持ち家の文学史: 「私」のうつわの物語 (956;956) (平凡社ライブラリー 956)

著者:西川 祐子

平凡社( 2023/11/06 )