淡路島旅行の際に海岸で  撮影者・上野千鶴子 

祐子さん。
そう言ってみるとあなたの不在が身に沁みる。
このひとがいなくなったら...と想像するだけで胸がしめつけられるような気がする...祐子さんは、わたしにとって、そんなひとのひとりだった。
ここ数年、外にお誘いしても、出るのが難しいと不調を訴えておられた。
いずれは、と覚悟していたが、その日がとうとうやってきた。
困ったとき、判断に迷ったとき。祐子さんならどんなふうに考えるだろうか、と思ってきた。おだやかだが辛辣な物言い、鋭い人間観察眼、ねばりづよく原点を踏み外さない思考...このひととの会話をどれほど楽しんだろう。

祐子さんには80年代、京都にあった婦人問題研究会で席を共にした。寿岳章子さんや脇田晴子さん、清水好子さんと関西の名だたる女性研究者の先達と知遇を得たのもこの席である。当時30代、駆け出しの社会学者だったわたしは、先輩の女性たちの経験に耳を傾けようと、意識して年長の女性の集まりにでかけた。
その研究会で、ある日、祐子さんが「フェミニズム」について報告をする機会があった。その場に祐子さんは、まだ十代だったか、ひとり娘の麦子さんを伴ってあらわれた。発表の冒頭に口にしたせりふが忘れられない。
「今日は、わたしの一番の批判者を連れてきました」
ごまかしを許さない、自分にきびしいひとだった。

祐子さんと旅をした。
アメリカのワシントンDCにアジア学会に参加するために出かけた。荻野美穂さんが一緒だった。
中国研究者の筧久美子さんが率いる女性研究者のグループにご一緒して、中国の各地を訪ねた。
祐子さんが在外研修中のエクス・アン・プロバンスの寓居を、同じ時期に滞在していたドイツからお訪ねして、地元プロバンスの市場で生牡蠣を食べた。
淡路島にできた新しいホテルに泊まりたいとお誘いし、春の淡路島でおいしい魚料理をご一緒した。
どの旅でも祐子さんは、好奇心を全開にして裏通りに入り込み、現地のひとと交わり、スケッチブックを取り出して絵を描いていた。いつのまに、と思うような早業だった。

遺著になったバルザック『人間喜劇』が、ご遺族の案内とともに送られてきた。
長い後書きの中にこんな文章があった。
博士論文でバルザックを論じた祐子さんが「バルザックを専攻する研究者にならなかった」理由を、「バルザック論を講義する大学研究職ポストにいなかった期間が長く、その間は自分のバルザック論の読者を確保する、ないしは読者を創出することが難しかった」からと。
その結果、祐子さんは「自分がその時々にかかえる生きるための問題を、同じ問題をかかえる仲間たちとともに考えながら、女性史、女性学、ジェンダー論そして生活史研究を名のるなど、しだいに領域横断型の研究者として仕事をするに至った。」
順調だった夫の長夫さんのアカデミック・キャリアに比べれば、妻の祐子さんのキャリアは不当、不遇な扱いを受けていた。阪大文学部仏文科で採用が内定していたにもかかわらず、前職をすでに辞していた祐子さんの内定が教授会の事情で先延ばしになり、祐子さんのキャリアは突然宙に浮いた。密室人事の不当性を法廷に訴えて、勝訴したのは祐子さんの闘いだった。あの穏やかな女性のどこにそんな闘志が、と思うが、あとになって祐子さんは裁判闘争を「たのしかったわよ」とのたまう。だが、もし採用されていれば、わたしたちはひとりのすぐれたフランス文学研究者を持つ代わりに、日本における女性史・女性学研究者のパイオニアのひとりを失っただろう。そのおかげで、わたしたちは評伝から文学批評、生活史、占領研究など、祐子さんの多彩な作品の読者となれたのだ。

遺著となったバルザックの翻訳の「解説」の日付けは、「2023年夏」となっている。祐子さんは京都の夏を耐えがたく感じておられた。その秋、祐子さんは倒れて、長い闘病の末、帰らぬひととなった。最後の力をふりしぼって、バルザック研究という原点に立ち戻られたのであろう。
このひとと同時代を生きることができてほんとうによかった、と思えるひとが、人生には何人かいる。祐子さんはまちがいなくそのひとりだ。
祐子さん。
あなたがわたしと共にしてくれた時間を、わたしは忘れない。

「人間喜劇」総序・金色の眼の娘 (岩波文庫 赤530-15)

著者:バルザック

岩波書店( 2024/06/18 )