こないだ昔のニューズレターに掲載したネタの焼き直しを載せたことで、そういや昔「ハレンチフェミニズム外伝」というフェミニズム的なブログやってたなあと検索してみるけど、そういや使用していたブログのサービスが終了してしまったんだと思いだしました。

それでも、二つほどの別の方のブログの記事に、当時の私の投稿に触れていただいいるものがあり、おお!と拝見すると、どちらも私自身の異性愛との向き合い方に関する投稿についてのようで・・。おひとつは、「「非モテ」か「女子力」か?」という記事で私の「「非モテ」と「女子力」 」についてのもの、もうおひとつは、「私の結婚という主観的な意見」という記事で、私の「(たぶん)結婚しません!」という投稿に関してのもの。それぞれ、本当に恐縮で、いまさらながらにありがとうございました。


その後、そういえば内容は保存してあったな、と思い立ち、古いハードディスクを調べてみたら。保存してました。こないだのは10年前だったけど、これらはさらに古くって、今から17、8年前。20代後半の私が思っていた恋愛、結婚について。異性に必要とされるかどうかをめぐって「女の敵は女」となる可能性を懸念したり、結婚という制度に疑問を持ちながらも、もしかしたらするかもしれない、と思っていたりの揺れ動きが綴られています。現在どうなったかというと、法律婚も、世帯主制度とつながる事実婚(でもそれが選択できる立場にあることは恵まれていると認識している)も選択せず、しかし選択的夫婦別姓制度が実現すれば法律婚をするかもしれない、ぐらいの状況で思ったよりぼんやりと共に生活している次第です。とはいえ、個人的なことは本当に政治的だと思うし、同性婚も、選択的夫婦別姓も、それぐらいの(本当に、ぐらい、の)制度さえ頑なに実現させない社会には不気味さを感じております。

一部個人情報的なものは修正し、拙い文章ではありますが、2本の記事を再掲します。こんなフェミは嫌い、的な失礼なこと、当時から言ってたんやなあ、ともあらためて。



■2006年7月16日 ブログ「ハレンチフェミニズム外伝」より
(たぶん)結婚しません!
July 13 [Thu], 2006, 0:24
こないだ研究会で斎藤美奈子の『冠婚葬祭のひみつ』を読んで、まあ、普通に、「常識」は実は最近になって作られたんだなあとか、葬式後に揉めることに備えて根回しも必要だなあ、とか、結婚式の「気持ち悪さ」はこういうことだったのかと納得して面白かったです。

日経新聞の記事やゼクシィのサイト情報あれこれの資料を研究会では読んだけど、そういうの見ると、それぞれの価値観だけど、私は結婚への違和感を持ってしまう。
立場的に結婚制度というものには反対していて、それはどういう理由からか簡単に書くと
●親しい関係のうち「男女」という組み合わせだけが国家によって優遇されるのはおかしい
●現実の企業には、身の回りの世話をする妻のいることを前提とした勤務形態をとっているところが多いということが、多様な生き方を否定するという意味で間違っていると思うから(最近はいろんな意味で変わってきていると思うけど)
●働く女性が結婚すると、男性よりも、税制や他の制度、企業内の決まりごとや暗黙の了解で、不利を被る事が多いこと
●一方の姓に変えなければいけないということはやはりおかしいと思うから
●婚姻関係にある男女間のレイプは法的に罰されない現実がまだまだあり、(DV法も制定されて随分変わったとはいえ)DVも家庭内の問題として警察がまともに暴力として扱ってくれなかったり、DV離婚では暴力を受けた側がまだまだ不利を被ることが多いから。
●婚外子差別もろもろ法的に変。そもそも、正妻や正統な子どもの権利を守るといったことはどういうことなのか。家庭内の義務を果たしてきた個人として様々な保護を受けるということと、婚姻関係という契約で守られることの間には乖離があるのではないか。(このあたりはもう少し詰めて考える必要がある)。その他いろいろ。

あと、気分的に、一般的な結婚観が「男がリードし女が男をサポートする」イメージである限り、結婚すれば、それまでの関係ならそうじゃなかったのに、男が威張り出したり、女が自分は尽くす存在と思うようになってしまうんじゃないか、ということがある。許せないとかよりも、相手が信じられなくなると思う。また、現実には男の方が「稼ぎやすい」世の中で有る限り、経済格差があれば、やっぱり稼いでいる方が上位に立つ、ということになってしまうかもしれないのもつらい。

フェミの悪い癖かもしれないけど、私は、結婚には「幻想」がある。それは、「悪い幻想」であり、現実にはいろいろな結婚生活が存在している中の偏見であって大変失礼なことだし、反省すべきものだと思っている。しかし少なくとも、政治的に自分が納得いかないのは事実だし、これは私の意見なので、違う意見の方がいらっしゃってもかまわないけど、それぞれの意見として尊重してほしいと思う。決して、既婚者の方を否定しているわけでも、結婚賛成派の方を非難しているわけでもない。つまり、自分が結婚するなら、自分の人生なんだから、そういう悪い幻想の中の結婚の道筋をたどりたくないというだけのこと。甘いとか社会を知らないとか、言われるかもしれないけど、それぞれ人には生き方があるのだから、私は自分の信念でそう思っているというだけ。

研究会での資料の話に戻ると、日経新聞の記事では、妻が夫に望む事第1位は「自分のしたことに感謝の言葉をかけてくれる」夫が妻に望む事1位は「いつも機嫌良く笑っていてくれる」でした。望むってことは、逆にいえば「してもらってない」ことでしょ?「自分のしたことに感謝の言葉をかけてくれない」「いつも機嫌よく笑ってくれない」のが夫婦生活だったら、それってなんか悲しいなと思う。それに、自分のしたことに感謝しろ、いつも機嫌よく笑え、って、例えば親友同士の関係とかだったら、言えることじゃないような気がする。だって、お互いの生活や気持ちを尊重したら、その人がしんどい時もあるだろうし、自分に批判的な時もあるだろうし、ありがた迷惑なこともあるだろうし、そんな自分勝手なことって言えないと思う。何度もいうけど、結婚というもの全てを否定するわけではなくて、もし仮に結婚に、この日経のアンケートのような側面があるとしたら、私は結婚は嫌だ。

お互い「言わなくてもわかってくれる」みたいな関係が人間として好ましい関係だとは私は思えない。それってただ自分の中にある相手の幻想を押し付け合って、依存し合う関係でしかないと思う。自分という存在は自分でも全ては把握できないくらい日々変化しているのだから、それを他人が何も話さずに理解できるなんていうのは、ましてやそれを愛だなんていうのは大変おこがましいと思う。お互い話し合える関係ではないと、人格を尊重した関係にはなれないと思う。もちろん、そうじゃない考えの方はそれぞれに思っておいたらいいと思う。

再び、今度はゼクシイのほうの資料に戻ると、男にとっての結婚式前の心構えとして書かれているチャートがこれまた嫌だった。

ご報告された方が的確にまとめてくれてたけど、「女性は式の雰囲気に夢を見、男性は責任を持って女性の夢をコントロールするといった印象をもって語られている」「『夫・妻に望まれる振る舞い』を十分に演じることが求められている」て。まあ、ここまで極端だとお笑いでしかないと思うけど、また私の中の結婚イメージが極端に悪化してしまった。責任放棄かもしれないけど文句ならゼクシイに言ってて感じ。


とりあえず昔ながらの「フェミニストは結婚について悪く言う」的文章と思われるかもしれないけれど、今私が言ってることは、既婚者の方の否定でも、結婚全否定でもなく、私の結婚という主観的な意見でしかないです。ついでに言うと、結婚という問題は、実はそこまで非現実なものでもないのもホンネです。自分の中のどこかで、このまま結婚でもしてしまおうかなあ、誰かにリードしてもらいたいなあ、とか思う気持ちもあるけれど、そのような「女らしい」欲望って、ウラを返せば結局は相手に「リードしろ」といってることだし、自分が楽したいだけのことなので、それって人間としてどうかという気持ちがある。それが納得済みの相互の契約ならいいけれど、二人の関係の中の「男らしい」願望も「女らしい」願望も、結局は自分本位のものでしかないと思う。それよりも、私は、まず親友としての関係、人間同士の関係になれないと、どういう形であれ長い期間を一緒に過ごす相手にはしたくないと思う。と言いつついろいろ矛盾もあるけど。

それよりもまずは自分の生活が安定しないとなー。二人の人生の前にまず一人の人生。それはお互いにとって。愛という言葉で何でも誤魔化す人もいるけど、愛というなら、そういう人生観が本当の愛だと私は思う。



■2007年4月28日 ブログ「ハレンチフェミニズム外伝」より

「非モテ」と「女子力」
April 28 [Sat], 2007, 1:34
たまにフェミニストを自称する人の中に、自分はモテない女だ、とか、わざわざいう人がいるけど、あれってどうなんだろう。

例えば、「非モテ」を自称するくせに、自分の書く文章の中に自分とパートナーとの話をしょっちゅう書くような自称「フェミ」への不快感、とか。。とりあえず先日友人とそんな話になった。

自称「非モテ」フェミの皆さんはおそらく、現在のジェンダーのあり方、男にもてるための「女らしさ」「女としての力」は自分にはなく、それによる恩恵を被っていませんよ、そしてそれらを得る努力(=媚を売る)なんてこともさらさらする気はありませんよ、という意味あいで、「非モテ」を自称しているんだと思う。私だって、どっちかを自称しろと言われたら、もちろん「非モテ」を自称すると思う。

あと、「負け犬」と名乗ることで、30代、非婚、子なしという、世間から肩身の狭い思いをする女性たちが「それで何が悪い」と開き直る楽さを手に入れたように、モテるための「女性としての価値」が低いことを揶揄される前に、自分から開き直って「モテない」と言ってしまったほうが楽なこともわかる。そういう戦略もアリだと思う。

ただ、デブと指摘される前に「私デブだから…」と先手を打っておく際、客観的に見てその人より太い人、あるいはその人より太いと自分で思ってる人が、「あの人で『デブ』だったら私はいったい…」と傷つくことだってしばしばあると思う。オンナ性を茶化したドラァグクインのパフォーマンスが、時として現実に女ジェンダーを生きる「女」たちに不快な思いをさせることだってある。

そんな思いが、「パートナーがいるくせにモテないとかうそぶくな!」「その程度でデブとか言うな!」とかで、せっかくの戦略を、女同士の不毛な対立に帰結させてしまうのなら、すごく残念なことだと思う。

考えてみたら、「モテる」、「モテない」、というのは(今へテロの話をしているとして)、「非モテ」を自称するフェミがもっとも憎んでよいはずのジェンダー的価値観によるレッテル貼りと格付けを意味してるはず。表面的には、コミュニケーション能力だとか、内面は外面の美しさに現れる、とか、人をいたわる心遣いが大切、とかいいながら、男性の「モテるため」には、それらは必要とされていない場合だってある。結局、わざわざ「非モテ」を自称する際に前提とされる「モテ」は、男に受け入れられるための「オンナらしさ」「女としての器量」があるかないかの話であると思う。そういう意味では、そういうのを「女子力」と言い切る安野モヨコとかのほうが潔い。

人と仲良くすること自体が不器用だから、という意味で「非モテ」というなら、それはそれでいいと思う。でもだからかえってややこしくって、「モテてる」、「モテてない」、とか「太ってる」、「太ってない」、というのは、それを取り巻く規範的な評価を含む一方、その他の解釈もできる(太っている場合なら健康を考えて自分の体型を気にするという文脈もある)、あくまで客観的な尺度であるからややこしい。確信犯的に「非モテ」「デブ」を自称したところで、自分へのレッテル貼りはある程度回避できても、積極的にレッテルを引き受けることで、一般的には男性に気に入られるためには女らしさが必要、男性(や世間の人)に好まれる細っそりとした体型が必要、という価値観をそのままにしてしまってるだけのような気がする。

ああ、上手く説明できない。なんていうかな。自分がモテるかモテないか、デブかデブじゃないか、そんなことどうだっていい、という言い方ならまだわかる。でも、女子力がない、という意味で、自分のことを「非モテ」「デブ」というんだったら、現実に、その人より、客観的にパートナーとめぐり合う機会が少ない人、太い人を、その客観的な基準を否定しないことによって、自分より下の存在、ということにしてしまうことになる。そして、ならば、そこまでする権利はあるの?という気になってしまう。

仮に、「非モテ」を自称した本人よりもモテない人が、「パートナーのいるアンタに非モテなんて称されたくない」、と文句を言ったとして、「非モテで別にいいじゃん」と当の本人は返すかもしれない。

でも、もしそうだとしたら、なおさらのこと、なんでわざわざ「非モテ」という必要があるのか、と思う。それこそ、「非モテ」「デブ」が蔑称として意味することの本質、すなわち「女子力が低い」、と言うことのみ言っていれば済む話なんじゃないかと思う。「女子力」は、言い換えれば(この文脈では)「女ジェンダー力」なわけだし、誰か他人が主観で押し付けた評価の尺度であって、客観的な基準じゃない。だから、自分で主観的に読み替えることもできる。なら、世間ではそれが大事とされているモノを私は必要としていませんよ、という文脈で「女子力がない」ということを誇りを持って言いつづければいいわけだし、モテない、デブ、とわざわざ称する必要もないと思う。

たとえパートナーがいても、女子力のない自分に寄ってきた変わり者、と冗談めかして言ってもいいし、女子力に惑わされずに人間的に自分を選んだ自慢のパートナーとでも言ったらいいと思う。もちろん、女子力がない、もしくは必要ない自分に女子力を求める相手との関係に悩んでいる、ということだって多々あるとは思うけど。デブかどうかだって、客観的に太ってるかどうかじゃなくって、その体型によって「世間」に自分が評価される時の低さだけ、戦略的に自称するなら、自称しといたらいいと思う。


なんかもしかしたら3行ぐらいで言えそうなことを回りくどく、くどくど書いてしまった気もするけど、とりあえず、何か戦略的な物言いをするときは、自分以外の誰かが、それによってどういう思いをするか、まで視野に入れないとな、というのは、自称フェミとして常々反省させられることが多いです。私自身…





※どうでもいいけど、このブログ「ハレンチフェミニズム外伝」でも2012年に「分断「させられる」社会と「ほどよい」連帯 」なんてタイトルで投稿してたのを知って、ああ三つ子の魂百までやなあと思い、とりあえずそんなようなことを去年書いた本も今回も懲りずに宣伝します・・。

分断されないフェミニズム: ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる

著者:荒木 菜穂

青弓社( 2023/12/18 )