エッセイ

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ミニュゥ・モアレム 竹村和子さんへの弔花

2012.08.05 Sun

薔薇はいかに
その心をとこしえに開き

そしてこの世に差し出すのか
その美をあますところなく?
  輝きをいや増す光が
その全身を照らしたかのようだった
 さもなくば、われらは哀れ
恐れおののくほかないだろう。

  (ハフィズ古典詩から)

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私が和子に初めて会ったのは、2008年、彼女が客員研究者としてバークリ-に来た時でした。

まもなくジェンダー/ 女性学部内での和子の知的存在を私は嬉しがるようになり、最初は研究者として、あとは友人としての会話を楽しむようにもなりました。

私がバ-クリーでの当該部の所長となった最初の年であり、アメリカの大学で多くの所長が困っていた同じ問題に手をやいていました。

その問題とは、ネオリベラリズムや個人主義や規制緩和が、差異や不一致を乗り越えた協働性や集団性といった倫理意識に基づく目標、コミュニケーション、方向性等に反対する方針をリードしていたのです。

ミニュゥさんからお送りいただいた、バークリーでの竹村さん

和子は私の毎日の苦闘をすぐに理解し、私へのサポートをしてくれるようになったのです。ジェンダー/ 女性/ セクシュアリティ部をとても重要事として、それを育てようとしている私の努力や働きに何度も注意を喚起してくれたのでした。

ある時には、女性のリーダーシップという立ち位置への挑戦や障害についての体験を、また、制度的文脈におけるケアの不可視な働きに関連するジェンダー、階級、人種、そして移民の意味も共有してくれました。

たぶん和子がリーダーシップをテーマとする日本での国際会議で講演するように私を招いてくださったのは、これらの会話のせいでしょう。

しかしながら日本での破壊的大震災のために、会議はキャンセルになりました。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.アメリカにおけるジェンダー/ 女性/ セクシュアリティ研究にかかわる当該部で、その構築やリーダーシップについて思考してきた私の7年半にわたる仕事に鑑みて「女性、リーダーシップ、ケアの政治」について書くように励ましてくれました。

戦争、暴力、人種差別、ナショナリズム、帝国主義、軍事主義など、私自身が長い間持ち続けてきた論題について、和子もまた興味をもっているということがわかり、知的な会話は大学の

同僚とか学問的な日々の暮しを超えて広がりました。

二人とも理論が好きでしたが、日本、イラン、アメリカなどの国で起きていることの政治的な意味合いに深くこころを寄せていました。

私は彼女から日本についてとても学びたかったし、和子は機会をとらえては、イランやイランのディアスポラ、アメリカについて知りたがりました。

二人とも理論を楽しみ、文化的、社会的、歴史的文脈をこえた理論化に興味を持っていました。

わたしたちは国家を越えた文脈で起きている暴力の見世物に慄いており、また毎日の暮らしに及ぶ軍事主義や暴力の問題にフェミニスト研究者がもっと関わるべきだと思っていました。

アブグレイブ収容所の恐怖に関連して、彼女は書いています。

「なぜわれわれはこのような写真を見て肝をつぶすのだろうか?女性によってなされる暴力は、家父長制の残忍さに抵抗するフェミニスト達を無価値にするのだろうか?

このような行為に至る女性兵士は、いかなる誘因を持つのか?性的欲望がこのような行為に至らせるのか?あるいは性的差異に関わりないちょっとした欲望なのだろうか?

または欲望それ自体がこのような虐待に関わっているのか?そうでないとすれば、いったい何があるというのだろうか?」1

このような問題に応えるなかで、和子は、フーコー流の生政治の概念を引き伸ばして、

「『より良い生』のためのエイジェンシーを、社会的さらには身体自体の死に曝すような、死に至る生政治」という概念を示唆しています。2

和子の根源的思想は、欲望や情熱、そして死を、戦争や軍事主義といった殺人装置をともなった日常の暴力行為につなげながら、考察しようとする点にもあります。

二人とも、特にあたらしいメディアやサイバースペースの拡大にともなって、日常生活の軍事化こそが、フェミニスト研究者が取り組まなければならいもっとも緊急の課題だと考えていました。

私は、和子が、日本の軍事化をこっそりと忍び込ませる一つの方法として、美やエロティシズム、そして死の文学的表象を考察することによって、文化・文学研究を政策研究につなげていく回路を作る努力を賞賛します。

和子が、小さい政府のとる政策や福祉国家を縮小したい欲望と軍事主義を結びつけることは、死に至る生政治や日本における主体化/従属化と統治性のつながり、さらに彼女が「ジャパニズム」と呼んだところのものの構成に結びつけていた点において、比類がないだけでなく、リベラル・デモクラシーにおける死の政治の理解にとっても非常に意義あることでした。

彼女は、内面的な美学が、外部の暴力に変容することと、現実の世界政治において永続することの関係性を理解するよう促しています。

和子のスマイル、知への情熱、ケアとサポートの言葉、機知あふれたクリスマスカード、

フェミニストポストコロニアル研究へのコミットメント、政治的繊細さと賢さ、そして何より、彼女の存在が惜しまれてなりません。

私たちはそう長くは関われなかったけれど、この出会いの永遠に終わることのない記憶を持ち続けるつもりです。

[1]Kazuko Takemura, Violence-Invested (non)Desire: Global Phallomorphism & Lethal Biopolitics”, Ochanomizu University, Japan, 2005.

[2] Ibid.

(ミニュゥ・モアレム カリフォルニア大学バークリー校、ジェンダー/女性研究部 教授)

(翻訳 河野貴代美)

なお、英語原文はこちらで読めます。








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

タグ:セクシュアリティ / フェミニズム / 竹村和子 / ジェンダー研究 / 追悼