ちゃんとしてる、とは
この勝手に連載。先月ひそかにお休みしておりましたが、ほんとちゃんとしてなくてすみません。今回は、そんな、ちゃんとしてるかどうか、みたいな話。
私は法律婚はしていないが、パートナーの苗字で呼ばれる際に充実感を持つことがある。
例えば、共に訪れる飲食店などで、お店の方にそう呼ばれるとき。説明するのも面倒くさいし常に政治的である必要もないと思っているので、そのまま受け容れるが、同時に、ちょっと嬉しい自分もいる。好きな人を同じ苗字になるという喜び、みたいなものでは決してない(そういう気持ちを持つ人を否定する意味ではない)。それは、しいていうなら、ちゃんとした生き方をしている人、として扱われたような気持になる、という感じだろうか。婚姻制度には違和感を持っているはずの自分のなかにも、未婚より既婚のほうが「ちゃんとしている」という気持ちがあることにもどかしさを感じる。そりゃフェミ的にはアウトなんでしょうよ。と。だから、その充実感はどことなく空虚なものでもあった。
それにしても私はずっと、ちゃんとしてない人間だ、という情けなさや惨めさとともに生きている気がする。
自分のやりたいことをしっかりわかって、そのための努力をして、進むべき道を見つけて、将来のためには自分のやりたいことをいったんひっこめて組織の思惑に沿って動いて、そのかんに成長して、家族を持って、子どもを育てて、とかなにひとつ成し遂げていない。そしてそのことがコンプレックスとなり、自分のアイデンティティのうち大きな部分を占めているときもある。
フェミニズムと出会ってからは、いわゆる「ちゃんとした」女の生き方、前述の「ちゃんと」のうち、結婚し子どもを持ち子を育て上げる、に加え、偏った気遣いや我慢の規範にも疑問を持たない、女らしい容姿をキープする、などは、「そうしなきゃ幸せになれない」という呪いであり、まあいいっか的な解放感は味わえたとは思う。
「ちゃんとした」フェミニズム?
ただ、フェミニズムや社会正義を志向する立場においても、それはそれで「ちゃんとした」生き方みたいなもんはついて回る。性差別や不正義を感じた時、それらを生み出す体制や社会構造にたいし声を上げられる人が「ちゃんとした」人、愚痴をこぼすだけで社会に働きかけない態度は「ちゃんとしてない」、ましてや、性差別や不正義の要素があるとされたものを、たとえそれを認識していたうえで批判しつつ割り切っていたとしても、楽しむことはもっと「ちゃんとしてない」、不正義に気づかないことはもっともっと「ちゃんとしてない」。
もちろん、個人を尊重する延長線上に、その人の状況やしんどさに合わせ、「ちゃんとする」ことは無理強いされないことや、逆に、事情のある人に「ちゃんと」を無理強いすることは不正義だという共通理解もあるとは思う。しかし、しんどさ、事情の匙加減は、時としてアバウトでモヤモヤすることもある。
ある差別や不正義にたいしその理不尽さを語っている人にたいし、「文句があるなら声を上げろ」という反応は、不正義を生み出す社会のしくみに疑問を持たずなんなら維持したい側の層からも、「文句」をことを封じ込める目的で発せられる呪いの言葉ともなり得る。それらとは別に、同じようにおかしいという思いを持ちつつ、自分なら普段から活動に深くコミットしていて声を上げ続けてるのに、愚痴るだけで動こうとしない人たちにもどかしさを感じ、「文句があるなら声を上げろ」という人たちもたびたび目にした。そりゃ、声を上げないと社会は変わらないのはたしかだろう。でも、社会問題を語り合い、自分たちの言葉で別の誰かに伝え、誰かの気づきにつなげる、ってのだって政治的行動だろうし、そののちに投票行動につながることだってあるのではと思う。一見、「声を上げていない」ような誰かも、知らないところで何かの行動をしていることだってあるのではと思う。
ゆるやかに、自分の言葉で自分と向き合う
フェミニズムを含む社会正義を志向する政治活動は、本当に誰かに多様な個人を尊重するという原点に立ち返るなら、「政治的じゃない」「ちゃんとしてない」というレッテルを貼ったり、●●もできないようではフェミニズムならず!(隣の男を変えられないようでは、や、結婚という制度に憧れるようでは、など)みたいなものではあってほしくないなあというのは個人的な願望としてはある。
ただ、「ちゃんとする」云々は、活動のあり方の話というより、むしろこれまでにも触れてきたような、自分の中のフェミニズムの呪いの内面化(フェミニストならエロに興味を示しちゃいけない、とか、美しくありたいこととか男と番うことに喜びを感じちゃいけない、など)同様の、自分を縛るものとしてのほうが自分の問題としては大きい。冒頭に述べたような「ちゃんとしてない」コンプレックスは、フェミニストを自覚してからも、違った形で自分を縛ってきた。
「ちゃんとした」は言い換えると、「大人としてふるまえてる」ともなる。先日読んだ栗田隆子さんの『ハマれないまま、生きてます こどもとおとなのあいだ』(創元社2024)のなかのいくつかの言葉からは、こういった「大人としてふるまえてない」自分や、「ふるまえてない」ことに囚われている自分と向き合うためのきっかけをもらった。
特に、「自分の腹の底から感じた思いを表現できる言葉がないと、人の価値観や評価基準にふりまわされやすい。そういうみっともなさもまた、自信のなさにつながっていたと思う」(p48)からは、自分のなかにある自分を貶める気持ちの根本に、自分を信用していない、自分が何かわかっていないところがあるとあらためて感じた。
また、周囲の人々からの「『否定』が年を重ねるに従いいつの間にか自分の中に入りこみ、自分自身もまた自分を否定するようになっていた」(p99)が一か百かの極端な思考を作り出す、ということは、まさに自分自身にもあてはまることで、しかし同時にそれと向き合うことをこれまで避けてたきらいのあることにも気づき、愕然とした。
自分が何に迷い、何とつながりながら、どう変化しつつ生きているのかを知るための言葉は本当に必要だ。栗田さんは、フェミニズムは「私にとってはフェミニズムは「疑問を持っていい」と肩をたたいてくれるような思想だ」(p125)、さらには「政治を語るのにいちばん大事なのは『自分が語っていい』と思えること」(p137)と述べられている。フェミニズムが何を与えてくれたか、自分はそれに従わないとダメ人間なんじゃないか、と政治的な本質からある種の逃げに走っていた私にとって、(ちゃんと本の内容を理解しているか不安はあるものの)こんな一番大切なことを忘れていたことを知り、また愕然とし(知ってる方は『コジコジ』の「ガーン」みたいな絵柄で想像していただければ)、そしてまた、空虚でないほうの充実感を覚えた。
こういった、自分の中のモヤモヤや出口のない空虚さから、ある意味希望にもつながる自分の流動性や可変性を向き合うことは、言葉との出会いなしには難しいとあらためて思う。
ちゃんとしてるかどうか、はたぶん、「フェミ」の方々から私に向けられることもこれからもあるだろうし、自分で悩ましく思い続けもするとは思う。自分のいたらなさで誰かに迷惑をかけているだろうことへの心苦しさも、自分の納得する、ちゃんとした人、を目標としてさだめ、精進していきたい気持ちもある。今後も空虚でない「とりみだし」とともに生きていきたい。
【追記】関係ないけど、最近観た、韓国映画『密輸1970』、韓国ドラマ『貞淑なお仕事』(まだ全話配信されてませんが)、めっちゃフェミでシスターフッドでした。女の敵は女の構図を示しつつ、背景にあるジェンダー構造が鮮やかに描かれてて、エンタメとしても面白いし、良いです!
※今回とくに写真とかもないのでまた本の宣伝!そんなわたしのフェミニズム、こんなフェミニズムもあり、ぐらいの本ですけれども!!
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