アメリカ女性文学研究者の小林富久子氏が、過去40年にわたる日本近・現代女性文学の研究成果としての論文を  一冊にまとめられた。

 小林氏は、早稲田大学名誉教授。同大ジェンダー研究所初代所長。現在、京都芸術大学通信課程にてジェンダーと文学に関する講師を務める。著書には、『円地文子──ジェンダーで読む作家の生と作品』(新典社、2006年)、『ジェンダーとエスニシティで読むアメリカ女性作家──周縁から境界へ』(學藝書林、2007年)等。また、訳書としては、アメリカ在住のベトナム系女性映像作家で詩人・批評家、トリン・T・ミンハの『月が赤く満ちる時──ジェンダー・表象・文化の政治学』(みすず書房、1996年)や、同じくベトナム生まれのアメリカ女性作家、モニク・トゥルンの小説『ブック・オブ・ソルト』(彩流社、2012年)等がある。

 小林氏が、日本女性文学を研究するようになったきっかけは、1980年代に19世紀米国の代表的女性作家たちを調査・研究する目的でハーバード大学に赴いたとき、何人かの教員・院生から「円地文子を読んだか」と問われ、円地の『女坂』を読んで感動したことからであったという。

 本書では、大正期のパイオニア的フェミニスト女性作家たち──田村俊子と宮本百合子――から現代日本女性文学までを、欧米の、主にアメリカのフェミニスト作家や理論、フェミニズム運動との影響、対比を横断的に比較分析している。

 タイトルの“クァーキー”とは、「突飛な、風変わりな、つむじ曲がりの」などの訳語が可能というが、小林氏によると、現在日本の女性作家は海外読者の間でブームともいえるほど次々と英訳をされており、その書評の中で英米の有力雑誌・新聞がよく用いているのがこの「クァーキー」という語だという。元々否定的にもとらえられがちな語なのだが、小林氏はむしろ過去の日本の多くの優れた女性文学にも共通する強さ、あるいは、独自性をも表わしうる、と主張する。

 その例として、まずとりあげているのが、近年のいわゆる新自由主義体制下で社会問題化されている低賃金ないしは非正規労働者としての女性たちを扱う作品群――村田紗耶香『コンビニ人間』、今村夏子『むらさきのスカートの女』、八木詠美『空芯手帖』等――である。小林氏によると、いずれの作品のヒロインも、19世紀ウォール街の法律事務所で上司から与えられたすべての仕事を「致しません」のひと言で拒絶するという、いわば受動的抵抗を貫く男を描いた米国作家ハーマン・メルヴィルの傑作「書記バートルビー」の主人公との近接性を示すという。

 双方に共通するのが、社会通念としての価値観やライフスタイルを拒否するといういわば社会的異端者とも言うべき存在だということで、それを目にする読者たちもまた、自分たちが依拠する「規範やライフスタイルが滑稽な作り物にも感じられる」ようになるとみるのだ。また小林氏は、そうした特徴は現代女性作家に限るものではなく、過去の日本の優れた女性作家たちにも当てはまりうるという。例えば、「子宮のない女」シリーズを書いていた円地文子を筆頭に、「子殺し」、「幼児虐待」などを執拗にテーマにし続けた高橋たか子、さらには「山姥」的なヒロインを造型し続けた大庭みな子や津島佑子などもこの系譜に入るのではないかというのだ。

 うち、最も力のこもった作品分析を示すのが、円地文子『女坂』の章である。「明治の家制度下で妻妾同居という特殊な状況を生きたヒロイン倫の不幸せな生涯」を、「巨大な父権的システムの伝統」とその周りの人間関係の物語として、「可能な限り細密かつ具体的に再構成」し、そのうえでそうしたシステムの伝統を「脱構築することを試みたのではないか」として、テキストから緻密に読み込んでいる。

 さらに、円地を小林氏は、米国黒人女性作家アリス・ウォーカーによる「母たちの庭を探求する」という企てにも連動させて論じている。「欧米のフェミニズム作家たちの間では、社会の主流で男性と肩を並べて生きようとする〈新しい〉女性たちを描くばかりでなく、過去に主流から締め出され周縁化されつつも、ひそかに自らの独自性を育みつつ生きていた無名の女性たちの埋もれた精神的伝統をも改めて自らの作品の中で肯定的に再現し継承して」ゆくという試みがなされているが、「戦後間もない日本で、過去の日本女性たちの記録されることのなかった物語-〈空白〉としての〈祖母〉の物語―を後世の日本女性たちに語り伝えようとした円地は、すでにしてそうした考えを実践していた先駆的な作家なのであり、今後日本の文学における「女性中心の伝統」が語られることがあるとすれば、円地と『女坂』がその中できわめて重要な位置を占めることは明白と言えるだろう」と結論付けている。

 他にも、黒人ノーベル賞作家トニ・モリスンを津島佑子と結び付けて分析する章や、大庭みな子、高橋たか子、吉本ばなななどによる一連の「母性」を扱う作品群をアドリエンヌ・リッチの「母性」論から読み解こうとする章なども含まれており、そのように本書は、日・米両国の文学を自由に往来してきた小林氏ならではのテキストの新たな読みを展開しているといえる。ちなみに、近年韓国文学にも眼を向け始めたという小林氏は、このほどアジア女性初のノーベル賞作家となったハン・ガンの『菜食主義者』を村田紗耶香の『コンビニ人間』と比べる試みも行っている。

 文学はその作家が生きた歴史の一点、環境の中で生み出されるものだが、本書は、女性文学が場も時も超えて、影響し合い、絡まり合って出現するということを検証し、人の生存の出来事として、提示して見せてくれる、まさに“quirky”なフェミニズム文学批評の書である。他の様々な分野の女性学研究者にも示唆的であろう。

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 以上に挙げたものの他にも新・旧多彩な女性作家たちが扱われているので、以下で目次を列挙しておく。
“Quirky” な女たちの伝統──序にかえて
 第1章 大正期のパイオニア的フェミニスト女性作家たち──田村俊子と宮本百合子
 第2章 森三千代の「東南アジア」小説──「国違い」「帰去来」における「民族」および「混血」のテーマ
 第3章 反逆の構造──円地文子『女坂』を読む
 第4章 「黒さ」と想像力──有吉佐和子『非色』の世界
 第5章 「制度としての母性」対「経験としての母性」
     ──アドリエンヌ・リッチの「母性」論から読む1960年代末‐80年代の女性作家たち
 第6章 山姥は笑っている──円地文子と津島佑子
 第7章 トニ・モリスンと津島佑子
 第8章 「狭間」から書く在日コリアン女性作家たち──李良枝『由煕』を中心に
 第9章 世界/地球文学としての日本・韓国の女性文学
 第10章 「ポストフェミニズム」世代としての「摂食障害小説」作家たち──松本侑子、小川洋子、赤坂真理
 第11章 伊藤比呂美における「エコロジカル・フェミニスト」詩人への道筋── 「カノコ殺しから『河原荒草』まで


◆書誌データ
書名 :クァーキーな女たちの伝統:米文学者による日本女性作家論
著者 :小林富久子
頁数 :272頁
刊行日:2024/10/8
出版社:彩流社
定価 :3300円(税込)

クァーキーな女たちの伝統;米文学者による日本女性作家論

著者:小林 富久子

彩流社( 2024/10/08 )