エッセイ

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越智博美 名づけ得ぬもの、到来すべきものへの希望 

2012.08.26 Sun

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.先日、竹村さんのお仕事をあらためて考える機会をいただいた。

長大な業績表を見渡すと、次第にフェミニズムに強い関心を寄せていかれたことがよくわかったのだが、同時に強く印象に残ったのは、ある時期に竹村さんの文章がとても強い力を持つものに変わっていったということだった。

『愛について』に収められた論文を執筆なさっていたころがおそらくは変容の契機だっただろう。

人はそんなに簡単に文章の強さと深みが変わるものだろうか?しかし、ほんとうに、それ以前のものと違うのだ。『愛について』において、彼女の言葉は時として身に突き刺さるように響き、時として涙をこぼさせる。

それはきわめて思索的でありながら、同時に読むものの感情を深いところから揺すぶらずにはおかない。

その頃、そしてそれはお茶の水女子大学のCOEプログラムのお手伝いをさせていただいていた頃のことなのだが、竹村さんは、「もうずっとハイなままで生きていられる気がする」とおっしゃったことがある。

論文を書くときにはハイテンションになるけれど、そのテンションをつねに維持できる。しかし同時に、ハイなまま突っ走ってコンピュータに突っ伏したまま命を落としそうな気がして恐いのよね、ともおっしゃっていた。

彼女は論文執筆の折には、脳を動かすためだけにエネルギーを取ればよいからと、あるときはチョコレート、あるときは果糖が、論文執筆の際の燃料としてマイブームになっていた。次にお目にかかったときにはまた別の何かに変わっていたものだった。

それだけ聞くなら、仕事バカというほどに仕事道に邁進する研究者だ。けれども、論文執筆にそのようにして一心不乱に向かうことは、とりもなおさず全身全霊をかけて思索にみずからを注ぎ込む過程でもあった、ということなのだろう。

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『愛について』の序文には、そこに収められた論文を執筆することが、ご自身を「解体していく道のり」(26頁)でもあったというくだりがあるが、書くことはみずからの解体も含めた深き思索の行程として、竹村さんの生の一部をなしていたのだと思う。

なんと壮絶で孤独な作業だろうか。

しかし、その解体作業は同時に、他者への、そしてまた名づけ得ぬ何かへの希望を孕むものでもあった。わたしにとっては、文学研究者としての竹村さんを拝見することができた最後のご講演(「ある学問のルネサンス?」として『文学力の挑戦』に収録)のなかで、竹村さんは、スピヴァクが「自己の他者化」と呼ぶ読みを夏目漱石の読み方——「其裏面には人に知られない淋しさも潜んでゐ[て]……ある時ある場合には人間がばらばらにならなければな」らないような読み方——に重ね合わせていらしたが(323頁)、そのとき「未だ来ざるもの」への、そしてあらたなる「友情」(324頁)への希望を託しておいでだったのだ。

そのときの聴衆、そして今、竹村さんの著書を手にとる読者もまた、その希望を、学問への希望とともに受け取ったことだろうと思う。

そしてわたしも、たしかに受け取りました。無くさぬよう、落とさぬように、運んでいかなければ。ありがとう、竹村さん。








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

タグ: / フェミニズム / 竹村和子 / 追悼 / 越智博美