女の本屋

views

4444

少女的世界が女たちをつなぐ―女性による女性のための映画『制服の処女』Ⅱ

2012.09.07 Fri

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.

 さて先の川喜多かしこの鑑識眼の鋭さもさることながら、彼女がこの映画から受けた感銘は、当時の女学校に広がっていた「S」(sisterのS、憧れの女性のことをこう呼んだ)ということばに示される同性愛的雰囲気とおそらく無関係ではない。たとえば当時の少女たちに愛読されていた吉屋信子の物語世界もその参考になるだろう。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.
 映画『制服の処女』はドイツのみならず、世界各地で大成功を収める。当時の女たちの多くはみずからが感じている、いまだどこにも表されていない世界をこの映画に発見したのではないか。『制服の処女』の少女的世界は女たちを結びつけていく。そして日本における少女的世界による女たちの結びつきといえば、数年前に出版された『少女の友 創刊100周年記念号』に収められた、当時の『少女の友』の愛読者の少女たちの投書によるつながりも思い起こさせる。今日では『制服の処女』はアメリカ合州国やドイツのレスビアン運動のカルト・ムービーの目され、脚本家のクリスタ・ウィンスローがレスビアンであったことは知られているし、おそらく監督のレオンティーネ・ザガンもレスビアンであったと推察されている。しかし公開当初(1931年)、この映画のレスビアン的要素は真剣に受け止められることはなかった。寄宿学校の思春期の少女たちにはありがちなことと思われたのだ。それよりもプロイセン流の厳格な教育に抵抗する、果敢な少女たちへの称賛の声が跡を絶たなかった。もっともだからといってこれはけっしてこの作品のもつ同性愛的雰囲気を否定するものではない。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. 『制服の処女』は最初、舞台作品『騎士ネレスタン』として1930年ライプツィヒで初演、ウィンスローはこれをさらに書き直し、翌1931年『昨日と今日』とタイトルを改め、ベルリンで再演されると、この上演が評判を呼ぶ。2010年にドイツで出版されたザガンの自伝によれば、この作品を映画化したいと考えたカール・フレーリヒは、ベルリンの舞台を演出したレオンティーネ・ザガンに連絡を取り、配役もできるだけそのままで映画の監督を依頼したのだという。もともと舞台俳優でしだいに演出も手掛けるようになったザガンは、それまで映画も数えるほどしか見ておらず、躊躇はしたものの、フレーリヒの全面的バックアップの確約を取り付け、映画の監督を引き受ける。ウィンスローの脚本も映画用にフレーリヒのスタッフと書き換えられ、内容もさらに充実したものになった。そしてザガンは映画というメディアによる、舞台とは違うリアリスティックな表現の可能性を懸命に追求する。たとえばマヌエラが自殺を試みようとする階段は、ザガンがポツダムにある軍の幼年学校で見つけたもので、彼女は撮影許可が下りるまでしつこく食い下がったようである。

 映画『制服の処女』のヒットは監督のザガン、そしてウィンスローを一躍有名にした。けれど結局この成功は彼女たちに多くをもたらすことはなかった。

 映画化の後、『制服の処女』は、脚本を手がけたウィンスローによって『少女マヌエラ』というタイトルで小説化され、1934年、アムステルダムのドイツ語圏の亡命作家の作品を扱う出版社から上梓された。もはやナチが政権を握るドイツでの出版は難しかった。小説では寄宿学校に入学するまでのマヌエラの幼少期が詳述され、そこにはマヌエラと同様に軍人の父を持ち、早くに母を亡くし、寄宿学校に学んだ作者ウィンスローの幼少期が重ねあわされているという。また映画の結末とは異なり、小説ではマヌエラが好意を寄せるベルンブルクは最後まで彼女の愛を拒み続け、それに絶望したマヌエラは自殺を遂げる(ただし舞台でもマヌエラは死ぬことになっていたようだ)。

 今から考えると、『制服の処女』はとても画期的な映画だ。この映画は世界恐慌で大打撃を受けたドイツで、ナチ政権の誕生する前のほんの短い期間に誕生した。ザガンに映画化をもちかけ、芸術監督を務めたカール・フレーリヒは親ナチの監督として知られている。もともとカメラマンで映画に精通したフレーリヒの助力なしには、この女ばかりの映画の成功は考えられなかっただろう。『昨日と今日』から『制服の処女』というインパクトのあるタイトルに変更したのもフレーリヒである。1931年のドイツで、ユダヤ系の女性監督による、脚本家も、出演者も、そしておそらくは観客(の大部分)も女性という映画が制作されたということはほとんど奇跡的といっていい。

 ユダヤ系であった監督のザガンがドイツを離れたのは、ナチが政権を握るよりも少し前の1932年のことである。彼女はロンドンに渡り、30年代、40年代には、当時イギリスで人気のあったアイヴァー・ノヴェロのミュージカルの演出を手掛けている。この間、ハリウッドからの誘いもあったが、合州国では成功することはできなかった。その後、ザガンは、幼少期の数年を過ごした南アフリカに移住している。脚本家のウィンスローはフランスに逃れるが、1944年、亡命先でドイツ側のスパイであると密告され、恋人の女性ともども射殺された。彼女にかけられた嫌疑については、ウィンスローを密告した人物も戦後裁判にかけられるなど不明な点も多く、真偽のほどはわかっていない。(lita)








カテゴリー:わたしのイチオシ / lita

タグ:映画 / フェミニズム / 少女 / レズビアン