母があっけなく旅立って1年と半年が経つ。「あっけなく」の中身は後述するとして、母と言えば思い出すエピソードに、少々おつき合いいただきたい。

母(堀内 貞舟)作『イマジン』 和訳

 私が大学4年だった40年前の秋、60歳を目前にした父が上層部から打診されたという話を母に打ち明けた。東京本社に単身赴任すれば取締役として3年定年延長されるという。祖母の下着を洗っていた母の手が止まり、父の顔をにらみつけた瞬間の口撃。「単身赴任て、食事はどうしはりますねん。作ったことないくせに!」「寝たきりの自分の母親置いて行かはるんですか?!」「何が取締役ですねん!しょーむなっ!!」ダクタイル鋳鉄の技術屋はこの話を断り、愛着ある「鋳物研究部長」として数か月後定年退職した。母のこの「取締役=しょーむな」論に絡んだエピソードをもう1つ。

 遡ることさらに10数年。その日、小学2年の私は緊迫した気配を障子越しに感じていた。父がうつ病で入院した。社内の人間関係、今の言葉で言えばパワハラが原因だったが、取締役と人事担当者が依願退職を迫りに来た。入院前のある日、父がお気に入りのネクタイで首を絞めた。母は父に駆け寄り裁ちバサミでネクタイを切って棄てた。ハサミの音と「何をしはるんでっか?!」という怒声。一方、「こんな病気」になった長男一家を住まわせておくわけにいかないと、同居の祖父は、父の弟家族を呼び寄せ、私たちを切り捨てるつもりでいた。そんなところへ病の原因となった側が訪ねてきたのだ。「主人は体調を崩す前後の出来事をメモして持ってます。何が原因か、それを見たら誰でも分かります。そちらがそういう態度やったら、こちらも出るとこに出ます。黙って引き下がると思いなさんな!!」しょーむない取締役たちはスゴスゴと去った。
 その後も母は忙しかった。私を連れて、母は連日父に面会し必ず治ると言い続けた。幸い父は半年弱で退院した。復職し、最初のエピソードどおり定年まで働いた。母は茶華道と書道を教えながら、かつて自分たちを追い出そうとした「舅と姑」の介護と看取りを終え、体を張って守り続けた病弱な父としばしの自由な時間を楽しんだ。そして父を看取る1年前、娘である私の近所に引っ越してきた。

母(堀内 貞舟)作 短歌by 会津八一

 2つのエピソードを兄は知らない。1つ目は彼が実家を出た後だったからだが、2つ目にからむ出来事を母は話さなかったし、入院中の父に1度も会わせなかった。大学受験を控えていたから、と。せめて2つ目に関して、「因習拡大家族」における女の生きざまの一端でも見せておけば、50数年後の惨事は避けられたと私は思っている。
 古屋を処分して引っ越してきた真新しいマンションで母は1人になった。途中から私は単身赴任のため毎週名阪を往復することになったが、70歳を超えても教える意欲の衰えない母を、総菜を作り届けることで支えようとした。そんな生活が20年弱続いた頃、洗濯機の使い方が分からなくなり、作り置き総菜を食べ忘れ、おカネを取られたと言うようになり、近隣の有料老人ホームに移った。母は食欲を制御できなくなっていったので、菓子類の差し入れは止め、毎週末の面会には図録を持参した。いつ頃どこで見た展覧会のものかを思い出すようになった。嬉しかった。その日も図録を見終え、なぜか一緒に『若者たち』を歌った。「またね」と手を振ってくれた。

 毎夕、リモートカメラを作動させ食堂から個室に戻ってきた母に電話をしたものだ。あの日カメラに映った母。苦しみもだえ、自力では吐き戻すこともできない母。スタッフ数人に抱きかかえられ洗面台でうつむく母。何があった?お母さん!と叫ぶしかない私。間もなくスタッフから電話があり、入居以来3年半、面会に来なかった兄が、母には多すぎる菓子を与えたことが分かった。私は彼が面会することも知らなかった。面会に行くのなら食べ物は厳禁だとなぜ言っておかなかったのか。悔やみきれない。
 母の人生観察が私をジェンダー論へと促した。その母の最晩年の日々を一日でも長く共有したかったし、できると思った。スタッフの協力を得て細心の注意を払っていたから。その貴重な時間は、内孫男子として曾祖母、祖父母から甘やかされ父母からも「配慮」されたあげく「しょーむない」大人になった人間の無配慮で、突然奪われた。
 リモートカメラで母の様子を見た水曜の夕方。毎週同じ曜日と時間帯に私は平常ではいられない。因習拡大家族のみならず日本の家父長社会で何も学ばず大人になると、こういう事態を引き起こす。「しょーむな!」と言い捨てて済ませてはいけない。

母(堀内 貞舟)作 詩by 茨木のり子

堀内真由美:教員