2012.10.27 Sat
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.坂上さんの作品を初めて見たのは、たしか「少年が被害者と向き合うとき」というドキュメンタリーだったと思う。日本でも少年法を中心に「修復的正義」に関心が高まっている一方で、被害者の権利を主張することが、加害者への重罰化へと結びつけられていく、そんな時代の変わり目だったように記憶している。
本書は、坂上さん自身の20年間の長い長い、暴力と向き合う旅がつづられている。物語の中心は、監獄の中。そこで、矯正不可能とさえいわれた、受刑者たちが自らの暴力と向き合っていく姿、そして、坂上さんとかれら・彼女たちとの長い交流で培った友情(アミティ)が、描かれる。
合衆国の人種問題や貧困、幼少期から受け続ける暴力、重罪を犯したり、薬物依存から抜け出せず犯罪を繰り返す人びとの壮絶な人生。そんな重いテーマを扱いながら、それでも、坂上さんが聞き取り、紡いでいく言葉は、とても美しく、救いに満ち溢れていいる。
一人ひとりの受刑者たちが、自分に向き合い、自らのなかの深い闇を見いだしていく途上で、そうした言葉は紡がれていく。誰に対しても無関心、共感したことのない人たちが、小さな猫を育てたり、バラの花を咲かせたりすることで、他人に向けられた暴力性は、自分を大切に思えないことから発していると気づいていく。だけど、そうした歩みは、人の話に静かに耳を傾け、自分をしっかり受け止めてくれる仲間たちに囲まれているという安心感のなかで、ようやく可能になっていく。
凶悪犯罪者だとレッテルをはり、刑罰を下せば終わり。そんな風潮は、暴力に向き合い、自らの暴力性の根源を他者とのケア関係を築くことで和らげていく、そうした大切なプロセスを完全に放棄している。それは、皮肉なことに、わたしたちの社会の暴力性を温存していることにしかならない。
一章ごとに、一人ひとりがどうやって、もう一度自分の人生に希望を見いだしていくかが描かれる。本書を手にした読者は、自らと向き合うことも迫られるだろう。わたしたちは、どれくらい、アミティが育ててきたような「ホーム」があると自信をもって言えるだろうか?その意味で、本章は「かれら」の物語であるだけでなく、わたしたちの物語でもあるのだと思う。
「刑罰は社会が科すのだから、その刑罰が生み出す問題に対して、根本的に解決できないのであれば、そして刑罰を廃止できないのら、社会は責任を果たし、家族が必要とするケアを十分に提供するべきではないだろうか」(131)。 (moomin)