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夢と現の狭間で 鳥集あすか
2013.11.29 Fri
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何かを通して垣間見る他人の生き方は、それが荒唐無稽であればあるほどに面白く感じてしまう。私が垣間見たいのは、フィクションではなくリアル。かといって「リアリズム」が過ぎるとそれはそれで辛いから、うまくクッションをかませて面白おかしくぶっ飛んだものが良い。読者はいつだって自分勝手だ。もちろん作者の側もそれをわかっているのか、「私小説家は作品を面白くするのと比例するように生活が破綻している」らしい。その破綻ぶり、もしくは流れに逆らいまくった生き方にかすかな憧れを感じながらも「あ、まだ私は大丈夫。ここまで落ちていないのだからまだ生きていける」などと思ってしまうところもまた読者の勝手さなのだろう。
そんな身勝手な欲求を満たすために何度も何度も読み返す作品がある。つげ義春の『無能の人』と、吾妻ひでおの『失踪日記』だ。
つげ義春の『無能の人』は、漫画家として行き詰った「私」が、中古カメラ業者や古物業を行うも失敗し、多摩川沿い(つまりその辺)で拾った石を売り始める(実際には売れたためしがないので、「石の前に莚を敷いて寝転がる」という表現の方が正しい)無為の日々を描いた作品で、もうどうしようもなくやるせない。作中の「私」も、その荒唐無稽ぶりを垣間見る私も、生活に行き詰ってグッと息をのむ瞬間をコマを通じて共有する。やるせない。どうしようもない。五里霧中。前にも後ろにも進めない。遠くで寺の鐘の音がなっている……。そんな作品のあとがきで、つげ義春は「乞食になりたい、仙人になりたい」と述べ続ける。でも、実際には乞食にも仙人にもなれずにいる。いや、ならずにいる。わかっているのだ。「リアリズムが過ぎるのはよくない」ということを。アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.
また、そんなつげ義春を尊敬しているのが、吾妻ひでおだ。彼の評価はつげ義春には及ばないのかもしれないが、彼の描いた私小説(ここでは「私漫画」とでもいうべきなのだろうか?)は、つげ義春に並ぶインパクトを持っていると思う。何がすごいって、あじませんせ(と、呼ばせてください)、つげ義春が最後まで捨てることができなかった家族(「私」は、何度も自殺を試みたり失踪をしてみようと思ったりするのだが、そのたびに息子や妻が迎えに来て家に帰る)をあっさり捨てて、なんと本物のホームレスに、「ホントの乞食」になってしまったのだ。アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.
吾妻ひでおの『失踪日記』とそれに続く『失踪日記2 アル中病棟』は、自身の失踪エピソードから、アルコール依存症になりアル中病棟に入院した実体験を面白おかしく程よいリアル加減で描いた傑作だ。この程よいリアルが絶妙で、作品構想時には「失踪中の話は悲惨なことも多いから、猫を主人公にして」描こうかと思っていたが「自分自身を出した方が笑える」と考え直して「本当の本当に悲惨なところは避けている」のだという。
彼ら2人の作品を読み、ひとしきり笑った後に、「私はまだ大丈夫!」と思う。それでも人は生きていくのだ、生きていけるのだ、と。石を売ってでも、ホームレスになってでも生きていける。
それと同時に、いつも頭の隅に浮かび上がるセリフがある。「あんた、本は読むだけのものということが分からなかったの?」(水木しげる『我が方丈記』)。曰く清貧とは金持ちの贅沢に過ぎず(つげ義春は仙人にも乞食にもならずに漫画を描くし、吾妻ひでおだって漫画という表現手段は手放さない)、清貧を許されない赤貧は目の前の飯に向かって爆走し続けなければならないとのこと。なるほど、一理ある。
そういう私の人生だって、人から見れば相当荒唐無稽なのかもしれない。そして、今日も私は現実に向かって爆走しようと思うのです。
カテゴリー:リレー・エッセイ
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