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「圧倒的なリアル」の前で言葉を失う 堀あきこ
2013.12.20 Fri
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小説にせよ、マンガにせよ、映画にせよ、物語を物語として楽しむことは、この息苦しくて腹の立つことの多い現実をなんとか生き延びていくために必要で、だから、世の中はこんなにもたくさんの物語であふれているのだと思う。
鳥集さんのエッセイに書かれていた「程よいリアル」という言葉が示すように、もちろん、物語は現実をそのまま切り取ったものではない。作家は「本当の本当に悲惨なところは避け」て描いたりするし、現実の出来事にもフィクションが混じえられる。
けれど、「程よいリアル」とは別に、「圧倒的なリアル」の前に読者を引きずり出す物語がある。たとえば、ヤマシタトモコの『ひばりの朝』がそうだ。
この作品は、さまざまな登場人物が主人公の女子中学生・日波里(ひばり)について語る群像劇で、日波里がどんな風に人々に見られているかが立体的に浮かび上がってくる。
***
日波里は白ムチ系で「女くさい」タイプだ。何をしたわけでもないのに「エロい」と言われる彼女は、そのエロさのために、男(父であっても)から常に性的な感情を向けられ、女(母からも)からは憎しみのこもった視線を投げかけられる。痴漢や変質者にあうのもしょっちゅうだ。
自分ではどうすることもできない「エロさ」のせいで、クラスで浮いた存在となり、ウワサ話の餌食となる。同級生からは疎まれ、友人もいない。家では父のまとわりつくような視線を感じているが、母は「女とはそういうものだ」とうそぶく。
中学生という年齢がぎりぎりの保護壁となっているが、日波里は「値段のつく女」「そういう女」とカテゴライズされる異質な存在で、孤立させられている。
日波里は一人ぼっちで、自分の状況を「あたしがわるいんだ」と、息をとめ耐え続けるしかない。
***
日波里はとてもリアルに私の記憶を引き出す。それは、小・中学校と一緒だったクラスメイトの女の子のことだ。白い肌とサラサラの髪、潤んだ大きな瞳と長いまつげを持つ転校生の彼女は、男子からも女子からも遠巻きにされていた。おとなしく、教室で目立つ言動もなかったのに、彼女の「女くさい」雰囲気が彼女を孤立させていたのだ。
『ひばりの朝』を読んだ時、まっさきに思い出したのが彼女のことだった。
まだ小学生だったのに、彼女は「女」として眼差されていて、それを他の子どもたちもわかっていた。直視してはいけないような、何かいけないことがあるような予感を彼女から嗅ぎとっていた。彼女はすでに「値段がついた女」だったのだと思う。
何もしていないのに彼女に原因があるような陰口。日波里は「男に媚を売っている」とか「エロさを武器にしている」というような言葉でそしられていたが、クラスメイトも似たようなことを言われていた。まだ恋愛からも性的な関係からも遠ざけられている年頃だというのに。
彼女は白く光っているような容姿だったのに、いつも一人でポツンといて、まるで暗い沼に沈みかけているように見えた。
そう、日波里のリアルは、私のクラスメイトと似ていることだけではない。一方的に値段をつけられてもやり過ごすしかない、誰も助けてくれない。自分の力で抜け出すことのできない黒く深い沼に落とされていくその様子が、どうしようもなく「リアル」なのだ。
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もう一人の主要なキャラクターが富子だ。富子は「女くさい」ことを責められる日波里と対照的に、「性的なにおいがしない」。これまで痴漢にあったこともない。痴漢にあうなんて経験はない方がよいとわかっていても、誰からも、痴漢からでさえ女として見られないことは、富子の心を蝕む。
富子もまたリアルな存在だ。富子は女としての値段がゼロではないことを確認するため、オトコに頼る。そんなことバカバカしい、そう思っているのに、「それでもあたしには値段がつくって 誰かに言ってほしかった」という富子のため息を、私は自分の痛みとして感じる。
「日波里と同じ女だろ?」と言われて、富子は絶句する。かわいいものが似合い、小さくて丸っこくて、黙っていたって男に愛される・日波里は、富子にとって「あたしと違ういきもの」なのだ。別のいきものなのに、何が同じというのだろう。女が分けられていることに、なぜ気がつかないのだろう。
***
作品を読み終わった時、日波里の息をとめ、富子を蝕む「女の値段」への怒りがフツフツと湧いて身体が震えるかと思ったほどだった。値段のつく女は沼にはめられ、値段がつかない女は薄氷の上を歩かされる。
値段は、性的であるかどうかで決まる。目盛りが「女くさい」の方に振りすぎれば、「エロい」と非難され「そういう女」だからと異端視される。「女のにおいがしない」に振りすぎると、女としての価値がないと無視される。
異端視されるのも無視されるのもイヤなら、目盛りが大きく振りすぎることのないよう、細心の注意を払わなくてはならない。「値段のつく女」なのか「値段のつかない女」なのか、どちらに分類されようがその押し付けは変わらない。
なぜ女はそんな選択を突きつけられねばならないのか?
女を「違ういきもの」として区分けすることに、なぜそんなに大きな力があるのか?
『ひばりの朝』はリアリズムを追い求めるタイプの作品ではない。けれど、性的な存在として見られて傷つき、性的ではない存在として見られても傷つくことの「リアル」が、「怒り」が、私を捉えて離さなかった。「圧倒的なリアル」の前に引きずりだされ、私は言葉を失う。今も、この作品のことを上手く人に伝えられる気がしない。もう何度も読み返しているというのに。
「圧倒的なリアル」を放つ物語は凄まじく、そして魅力的だ。強烈な読書体験をとおして、ぼんやりとしていた怒りが、私のなかに蘇ってくる。息苦しくて腹の立つことの多い現実への憤りをあらわにしてくれるのも、こうした物語の力なのだと思う。
カテゴリー:リレー・エッセイ
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