2014.08.28 Thu
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.本書はレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル(LGB)等のセクシュアルマイノリティと、そうした子どもからカムアウトされた異性愛者の親の親子関係に足場を置いて、理解できない他者や差異ある他者と私たちはどうやって生きていくことができるのかを問うものです。これまで私は、LGBと親へのインタビュー、セクシュアルマイノリティとお友達の異性愛者や親が参加するグループに参与観察をしてきました。これは、その「私」(=本)を介して、読者がかれらの生の「声」に接し、何かしらを考えられるようにという願いを込めた作品です。
本書は副題の「同性愛と家族の社会学」が表すように(編集の過程で名前が変わりました)、研究者向けの学術書ではありますが、研究職以外の方にも読んでいただけるように学術用語でガチガチの博士論文に大幅に手を入れたものです。さらに、本のなかでは問いの立て方そのものを転換しています。
博士論文では、「なぜLGBは親に理解されたいと思うのか」という、今思えば自分でも答えにくい問いを立てていました。結局のところ、博士論文は「社会において不可視化され、なんの制度的保障のない中で、LGBは存在論的不安を抱え、だからこそ親に承認を求めている」と結論づけました。ですが、出版に向けて改稿する段になり、なにやら不安になってきました。当人たちに聞いてもうまく答えられないだろう問いを、社会学者の「私」が代わりに答えてしまっていいのだろうか。このように過去の私が抱いていた、いわば「上から」の姿勢に違和感を持つようになったのです。
そこで私は、LGBと異性愛者の親についての研究報告や教育活動をする中で感じた疑問から書き始めました。私がインタビューをしたLGBは親に理解されない苦しさを語り、一方で親は子どもを理解できない自分を責めたりしていました。私の研究内容を聞いた人は「親が子どもを理解できないのが理解できない」、「なんでそんなに親に理解を求めるのか」、「理解できない親となんか縁を切ればいい」等とコメントしました。誤解のないように言い添えますが、語気や表情からも、こうした言葉は何気ないもので、かれらに特に悪意があるとは感じられませんでした。でも、かれらの言葉のなかに、私はもやもやとしたものを覚えました。かといって、その場ではそれをすぐには言語化することもできませんでしたし、博論でも掬い取れませんでした。あろうことか、もやもやをそのまま博士論文のなかに持ち込んでしまったのです。
靄に囲まれて時を過ごす中で、私は少しずつこう思うようになりました。かれらは親が子どもを理解すれば、もしくは、理解できない親とはLGBが「絶縁」すればLGBと親が抱える葛藤がすべて解決する、そのように考えているのではないか。私に或る種の違和感をもたらしたのは、親子の葛藤や問題の解決策を、「家族」や「個人」に帰着させる社会的なまなざしではないだろうか。本を通してこのまなざし、そのものを問い返してみたい、と。
本書では、以上のような問題意識を「はじめに」で述べ、内容を三つの部に分けました。
「Ⅰ部 理論と方法」では、LGBと異性愛者の親を対置してきた先行研究を批判的に検討し(「1章 カムアウトする親子を考えるために」)、親子双方の問題経験を個人に帰すのではなく、社会によってもたらされるものとみなし、親子をスティグマに苦しむ当事者として再定位する必要性を訴えました。本書の要となる質的調査がどのように行われたのかを整理した後(「2章 調査方法」)、「Ⅱ部 子どもが経験するスティグマと対処」では、子どもの視点に立ちかれらへのインタビューと関係するグループへの参与観察から、友人関係(「3章 友達への/からのカミングアウト」)、親子関係(「4章 親へのカミングアウト」)を分析しています。「Ⅲ部 親が経験する縁者のスティグマと対処」では、これまであまり取り上げられることのなかった、子どもからカムアウトされた親が登場します。我が子からのカミングアウトへの対応(「5章 子どもからのカミングアウト」)、その後の親の認識の変容と立場の推移(「6章『縁者のスティグマ者』になる親」)と二章にわたって親の主観的経験を丹念に追った後に、LGBT、異性愛者の親、友人という多様な立場の人間が集まるグループでの相互行為とその可能性を論じています(「7章 カムアウトする親子」)。
一歩間違うと作品を破壊する「問いを変える」というダイナマイトをしかけたのですが、竹村和子フェミニズム基金からの助成という大きな後押し、研究仲間・先達からサポートのおかげもあって、なんとか本書を世に出すことができました。
もちろん、いくつかほころびはあります。未だに私を悩ませているのは「名称」です。学術業界では「LGB」や「LGBT」(トランスジェンダーを含む)は、かなり一般的になってきたように思います。これらは「同性愛者」や「同性愛」よりも幅広い概念です。ですから、LGBやLGBTをタイトルに入れるのも検討しました。しかし、カタカナの専門用語やセクシュアルマイノリティと接点のない(もしくは接点がないと思っている)方には、何についての本かさえ伝わりません。これでは、狭い意味での当事者だけでなく、幅広い方に親子が抱える問題経験を伝えるという当初の趣旨から外れてしまいます。
本書には、レズビアンやゲイだけでなく、トランスジェンダーやバイセクシュアル、それ以外にも性別二元論と異性愛規範のなかで生きづらさを感じる人が登場します。それを「同性愛」の下にまとめてしまっていいのだろうか・・・。何かに名前を付けると、他がないことになるジレンマを感じながらも、本屋さんで目にしたときにインパクトがあるだろう「同性愛」を副題に選びました。同性愛と異性愛を二項対立的に配置し、前者を後者よりも下位に位置づける社会がバイセクシュアルにも生きづらさをもたらしていると考えたので、「同性愛者」ではなく「同性愛」としました。それでも私の言葉に性別二元論は維持されたままであり、トランスジェンダーをタイトルがカバーしているとは言い切れません。言葉を使って表現をする難しさを今も感じ続けています。
言い訳がましくなってしまいましたが、本書は私が足かけ5年にわたって耳を傾け、一緒に時間を過ごしてきた人たちの生の「声」が詰まっています。かれらの語りが「私」を通って少しで多くの方に届けば、筆者として望外の喜びです。
最後に、「声」を受け取り社会に伝えるという務めを果たさせてくれた、今は亡き竹村和子先生と竹村和子フェミニズム基金に改めて感謝の意をお伝えしたいと思います。(筆者)
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