エッセイ

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[竹村和子さんへの想い] 視ているのは誰なのか 冨山一郎

2014.09.25 Thu

『彼女は何を視ているのか』(作品社、2012年)に挟み込んであった「竹村和子さんと〈チームK(和子)〉」にある2011年4月8日付のメールが、ずっと私の中で宿題のようにたたみ込まれている。「これは絶対生きなければならない、あと十年は生きて、新しい学問を作らなければならない」。この「新しい学問」とは何だろう。それは新しい研究課題や、〇〇学とくくられ、既存のアカデミアの分野に収まるものではないはずだ。この問いに対して、少ないやりとりで私が得た竹村さんの言葉と、残された文章から考えたいと思う。

 初めて竹村さんと直接に出会ったのは、2000年に雑誌『現代思想』が企画したジュディス・バトラーをめぐる対談だった(「バトラーがつなぐもの」『現代思想』2000年12月)。竹村さんが雑誌『思想』に掲載された『ジェンダー・トラブル』の私の書評を読んで(「困難な私たち」『思想』913号、2000年)、私との対談を『現代思想』編集部に持ちかけたという。ちなみにこの書評も、大学でブルー・シートを広げ、院生たちと花見をしていたところに、『思想』の編集部の方が偶然立ち寄よった際、今ゼミで竹村さんにより訳されたばかりの『ジェンダー・トラブル』を読んでいると話したところ、それなら書評をということで生まれた。こうした偶然がなければ、きっと私は竹村さんと直接会うことはなかったと思う。

この書評と竹村さんとの対談を契機に、次から次へと竹村さんが翻訳するバトラーの文章をきっちり読むことが、私の習慣となった。それはバトラーを読むことでもあったが、私にとっては竹村さんを読むことでもあった。翻訳されたバトラーの文章から翻訳者の竹村和子を読む。いいかえれば、バトラーの原文と竹村さんの翻訳の両者を眺めながら、その間に竹村和子を確保するような読み方だ。竹村さんは、2003年のインタビューで『ジェンダー・トラブル』に出会ったことが、「研究の場でフェミニズムについて語ろうと思った契機」だと語っているが[1]、私はこの出会いを竹村さんの翻訳から読もうとしていたのである。私とって竹村さんを考えることは、少ない出会いと残された文章、とりわけ翻訳されたバトラーにおける翻訳という行為を考えることでもある。

ところで、この「新しい学問」ということを考える上で、思い出すことがある。それは竹村さんにとっての書くということ、あるいは書き言葉へのこだわりとでもいうべきことだ。『現代思想』の対談が行われた2000年の秋、竹村さんの研究室で行われた収録あと近くの居酒屋で飲んだ際、ふと竹村さんが独り言のように語った言葉が忘れられない。それは、ワープロで文章を書いているとトランス状態になるという話だった。確か竹村さんはその時はまだワープロ機を使っていたのだが、そのワープロ機から書き言葉として打ち出される言葉たちが、未来の読者たちの広大な宇宙に向けて解き放たれていくのを感じるというのだ。自分は未来に開かれた不特定多数の人々と言葉を介して繋がっている。竹村のいう「新しい学問」における書く行為の基底には、単に何を研究するのかという研究内容にかかわることだけではなく、こうした言葉への根源的な感触があると思う。たとえば先ほど言及した2003年のインタビューで、竹村さんは次のように述べている。

研究とは、「まだ見ぬ地平」を探ることだと思います。「まだ見ぬ地平」とは、研究対象であり、かつ自分自身のことです。人文系はとくに 自分自身が重要だと思います。なぜある問題に興味をもつか。それは、それに反響している自分がいるからです。そのときどきに論文として発表するものは、たとえ稚拙なものであろうとも、自分を押し広げるという意味で、大きな可能性を秘めていると思います[2]

 「自分を押し広げる」こと。「まだ見ぬ地平を探ること」。あの居酒屋での独白のような言葉は、このことなのだと、あとで知った。また同じインタビューで、「論文は必ず、いまいるところから、別のところへと、自分を推し進める」のだとも話している[3]。こうした書くことは、読むということへの認識とも関連している。竹村さんは、読むことは誤読でもいい述べ、「作者が書いていないことを読みとればいい」と話している[4]

こうした言葉の感触は、書かれたテキストは不特定多数の受け手において意味をなすというバルト的な「作者の死」ともとれるが、むしろ死を前提にした未来への投企といった方がいい。竹村さんにとって書くということは、整った内容を誰かに伝達することというより、宛先が予定されていない相手に語りかけることであり、それは瓶に手紙を入れて海に投げ入れる、文字通りの投企なのだろう。未来は瓶を投げ入れた時から始まるのだ。そこには、きっと瓶を受け取る人がいるはずだという未来への確信がある。まだ見ぬ世界に向けて自分を押し広げ、未来に向けて投企することこそ、竹村さんにとっての研究だったのではないだろうか。「新しい学問」ということが、決して新しい研究分野ということではないと確信できるのも、この居酒屋での話を思い出したからである。

竹村さんのいう「新しい学問」は、既存の研究の延長線上に定義された新しい学知を、人に伝達し、教育をすることではない。瓶の投企は、伝達すべき情報を占有する知識人や専門家がまだ知識を持たない人々に向けて行う啓蒙や教育ではないのだ。バトラーにならって「行為体」(agency)という表現を使えば、言葉が、投企された瓶という行為体として未来を開いていくことこそが新しいのだ。そしてこの新しさは、新しさを論じるという行為それ自身に対しての問いでもあるだろう。研究者が行為体としての言語について語るときに、看過し、またしばしば意識的に無視する問いがそこにはある。それは説明をする自らの言語を行為体として考えるということだ。あるいは説明することについて、バトラーが極めて的確に注釈をつけ加えるのもこの点だ。

この説明自体が言語によってなされているために、言語という「行為体」は、この説明の主題であるだけではなく、説明行為そのものである[5]

そこから導かれるのは、説明それ自体への強い疑義であり、問いである。だからこそバトラーはトニ・モリスンに言及しながら、「彼女は『言語は行為体である』とは言わない。なぜならこの種の断言は、言語から、彼女が意図している行為体の性質を奪ってしまうからである」[6]と述べるのだ。説明し、啓蒙し、教育しようとする自らの言語自体への問いが、そこでは確保されている。またそれがアカデミア自体への根源的な批判であるがゆえに、多くの場合意図的に無視されるのだろう。だが竹村さんは、この問いを抱え込もうとしていたのではないか。

論文は、自分が占有している知識を、予め知識を持たないとされている人々に伝達することではない。自分をまだ見ぬ世界に向けて、押し広げることなのだ。竹村さんのいう「新しい学問」を考える時、この点こそ最も重要な点だと思う。またそれは政治という設定にもかかわる。研究の政治的意義は、政治や運動を研究の外部におき、そこに自らの言葉の根拠を見出すことではない。竹村さんにとって政治と研究の関係は、世界を予め政治的に固定し、そこで自らの言葉の位置取りをすることではないのだ。研究が自らを変え、まだ見ぬ世界を切り開き、未来に向けて言葉たちを投企し続けることにこそ、竹村さんは政治という問いを立てようとしていたのではないだろうか。またそれは、政治や運動を論じ、啓蒙し、マスコミをにぎわすいわゆる良心的な知識人に対する竹村さんの距離を保障しているように思う。あえていえばこの政治という問いは、正しさを占有する学が得意とする言語的説明に対して、自らを変え、まだ見ぬ世界を切り開き、未来に向けて言葉たちを投企し続ける行為を対峙さすことでもあるのだ。

                   ***

政治ということをめぐり、すこし系譜学的な設問を立ててみたい。それは、2004年に刊行された訳書である『触発する言葉』につけた竹村さんの、「いかにして理論で政治をおこなうか」と題された「訳者あとがき」にかかわる問いだ。ここで竹村さんは、バトラーが押し出した言語行為にかかわる政治に対して、あからさまに不満を表明している。そしてこの不満にみられる二人の距離の前提となる状況に、「2001年9月11日以降」があるのは間違いない。竹村さんはこの「訳者あとがき」においてバトラーへの不満と同時に、暴力と身体を政治の課題としてあげ、とりわけそこでは、「自爆テロや、さらには女の自爆テロリスト」[7]が根源的な問いとして据えられている。

だが、911を議論の前提として説明してしまうことは、問題の単純化であり、あえていえばそれは、大きな危機を起点に世界を説明したがる知識人の振る舞いに他ならない。それこそが、竹村さんが拒否しようとした知のありようである。911で世界が変わったと述べる知識人に対して竹村さんは、「わたしはその言葉を聞くたびに、なんとも言えない不信感と失望を感じました」[8]と述べ、危機に湧き立つ世論やマスコミに躍り出る知識人・研究者たちへの違和を、明確に述べている。だからこそ、こうした単純化ではなく、「訳者あとがき」において表明されたバトラーに対する訳者である竹村さんの不満について、そこに到るプロセスを遡行し、系譜学的にまずは考えてみる必要があるのだ。

あらためて述べるが、この竹村さんのバトラーへの不満は、「2001年9月11日以降」の政治をめぐる単なる対立とか、意見のズレといったものではない。もっと錯綜した、アンビバレントなものだ。それは表題の「いかにして理論で政治をおこなうか」からも解るように、文字通り政治ということにかかわる。竹村さんにとって『触発する言葉』は、「アカデミズムに自閉」[9]しないバトラーの議論の典型であり、「理論の政治的可能性」[10]をダイレクトに示した書である。またその文体についても、別の文章において、「(これまでのような)時に息苦しくなるような思索の錯綜性や理論的眩暈にみちた読後感はあまりない」(カッコ内引用者)と述べ、その理由に「新しい民主主義」、「オルタナティブな普遍性」という政治を定義する言葉とその言葉によって支えられた議論の流れがあることを指摘している[11]

『触発する言葉』でバトラーは、新たな政治の領域を切り開いたのだ。しかも理論において政治を行うということに、打って出たのだ。そして翻訳者の竹村さんはこのバトラーの挑戦を正面から受け止めた。その竹村さんが、バトラーが押し出た政治を受け止めた上で、不満を表明し、距離を置こうとしたのだ。そしてこの『触発する言葉』をめぐる竹村さんとバトラーの距離は、先ほど述べた説明するということにかかわる学知や啓蒙的知識人の問題と、密接に重なるのではないだろうか。問題はやはり政治ということなのだ。そしてそこにこそ、「新しい学問」を考える端緒があるのではないだろうか。

以下、『触発する言葉』の「訳者あとがき」で表明された不満の在処を、竹村さんの言葉をパラフレーズしながら確認し、議論を進めていきたい。そこには言語行為の可能性にかかわる、重なり合う二つの不満がある。竹村さんの不満の第一は、暴力にかかわる問題である。反復される発話行為に新たな身体性の獲得を考えようとするバトラーに対し、「身体レベルでの撹乱性は、新しい身体の構築としてではなく、従来の身体の破壊としても論じられなければならない」[12]と竹村さんがいう時、言語行為に帰着しない、身体への暴力的破壊が見据えられている。そしてその上で、竹村さんが設定するのは、あえていえば生きるということだ。暴力的に破壊され続ける身体を抱え込みながら生きるという道筋を、暴力的状況の中で確保しようとしているのだ。こうした設定が、竹村さんの生政治(biopolitics)にかかわる議論と結びついていることはいうまでもない。またそこでは、フーコーが強調した「いかに生きさせるか」ではなく、問答無用で遺棄される身体という側面に焦点が定められている。それはムベンべが、ネクロポリティクスといった問題でもあり、ムベンべが指摘するように、そこでは遺棄される手前で自らの意思で命を絶つこと自体が、抵抗の近傍に登場することになる[13]。自爆は抵抗かという重い問いがそこにはある。

しかし竹村さんは、こうした問答無用の暴力の中でも言葉の力を手放そうとはしていない。だが生きるという設定には、言葉を紡ぎ続ける存在として、すなわち発話行為を遂行するものとして生きるということだけではいい足りない問いが、含まれている。すなわちそれは、言葉が身体に対して持つ遅延という問題であり、生きることがすぐさま行為体であるということではないのだ。暴力は、暴力により破壊された「喪失」を生に刻印する。そこでは、「『喪失』を糊塗するような生を、日々立ち上げていく。暴力は、暴力的行為のなかだけにあるのではない。暴力のその後、わたしたちの生そのもののなかに根を張っている」のだ[14]

このような、生きるという問いは、あえていえば言語行為の可能性を先送りし続けるということであって、性急に言葉に行きつくことではない。むしろ事後的に見いだされる身体がいかなる言葉を獲得し、その言葉において何がなしうるのかという問題である。そこには、言葉を失っている身体的時間が前提にされている。それは、言葉の外部に身体を置くこととも少し違う。あえていえば、言葉の可能性を先送りにしながら手放さないために、言葉を失い傷ついた身体が刻み続ける生きるという道筋を、竹村さんは確保しようとしているのだ。

第二の不満は、制度にかかわる。「彼女(バトラー)が『新しい民主主義』や『新しい意味づけ』へと、議論を最後に急いで纏めあげてしまうこと」[15]に、竹村さんは不満を表面する。それはまた、発話行為が身体に対する破壊として、すなわち暴力として登場する危険性を首肯しうるかといういい方でも述べられている。すなわち、「発話としての撹乱性と、その行為の暴力性を、どのように峻別すればよいのだろうか」[16]。またこの問いは、暴力という問題であり、第一の不満とも関係するだろう。ヘイト・スピーチを発話行為ではなく暴力としてどう対応するのか。あるいは、暴力が引き起こしてしまう身体的破壊に対して、その後に生き続ける道筋をどう確保するのか。そこには、発話行為にはすぐさま還元できない政治的文脈が明らかに存在するのであり、竹村さんはバトラーに対して、かかる文脈にかかわる議論の必要性を主張しているのだ。また逆にいえば、こうした議論をふまえることによってこそ、発話行為が生み出す政治の新しさが、より鮮明に浮かび上がるということでもある。

この竹村さんの第二の不満は、訳書『触発する言葉』が刊行された同年に、『社会学評論』(55巻3号、2004年)に掲載された「修辞的介入と暴力への対峙」において展開された議論にも関連する[17]。そこで竹村さんは、ガヤトリ・C・スピヴァク、ドゥルシラ・コーネル、リュース・イリガライらの錯綜する対立関係を、政治にかかわる可能性にむけての協働的な関係に読み変えようとしている。その際重視しているのは、スピヴァクが『ポストコロニアル理性批判』においてマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』に言及しながら述べた、表象と代理を混同してはならないという点である。制度を前提にし、そうであるがゆえに政治になるという代表性と、修辞的介入としての言語行為における遂行性との距離を見失わないことを、竹村さんは政治を問題にする議論の前提として設定しているのである。すなわち、「両者をごた混ぜにして、いつの間にか表層的な<表象>遊戯に終始する脱政治的な姿勢」[18]を批判しているのであり、この脱政治化への危惧が、竹村さんのバトラーへの第二の不満につながっている。バトラーがこの両者を直結させてしまっているように、竹村さんには思えたのだろう。

ここでこの第二の不満に対して、次のような問いを重ねてみよう。すなわち言語行為と集団的な制度の距離を前提にしたうえで、両者の関係をどのように考えるのか。すなわち、言語行為がいかなる新しい集団性を生み出し、既存の制度への制度批判として登場するのかという問いである。そしてこの問いは、『触発する言葉』においてバトラーがジョン・オ―スティンの言語行為論を前提にしていることと関係する。それは個という単位の問題だ。個は身体性において歴史であり、可能態でもあるが、個であることにより、歴史は個人化され可能態はパーソナルな領域に封印もされる。オ―スティンの議論に抜きがたく存在している個を単位とした言語行為ということこそ、可能性をより精鋭化させ身体性を浮き上がらすと同時に、その可能性を封印してしまう原因でもあったのだ。それはジャン=ジャック・ルセルクルがオースティンの行為遂行性に対して、「方法論的個人主義(集合行為は個別の意思決定の合成に他ならないという考え方)と志向主義(発話の意味は、それが聞き手によってそれ自体として理解されるという条件のもとでのみ、発話者がそれが意味するように意図することであるという考え方)に絶望的なまでに、囚われている」として批判することと深く関係している。またオースティンを批判したルセルクルは、「スローガンはつねに集合的」であるとして、言語行為が個を媒介することなく集団性を構成する力としてあることを議論するために、レーニンの言語、あるいはドゥルーズ&ガタリのいう「指令語」に向かう[19]

今ルセルクルが展開した指令語、あるいはレーニンの言語についてここで立ち入ることはしない。ただ、この個を基盤とした集団性とは異なる集団のありかたやそこにおいて見いだされる政治という問題は、竹村さんの『触発する言葉』にかかわる第二の不満とも重なるのではないかと考えている。また、だとするならば、第二の不満は、『触発する言葉』において遂行性を言語行為に収斂させたことにもかかわるのであり、結局のところ言語行為に軸を置いた政治への不満を、暴力と制度あるいは集団性において竹村さんは表明しているのだ。そしてこの二方向からの不満をふまえた上で、竹村さんが設定する基底的な問いは、言葉を失った暴力的状況の中で生きるということを集団としていかに確保するのか、ということなのではないだろうか。

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次に、この「訳者あとがき」において表明された竹村さんの『触発する言葉』への不満を念頭に置きながら、そこに行きつく系譜を バトラーと竹村さんの関係、いいかえれば翻訳という行為にかかわる関係史として検討してみたいと思う。結論的にいえば、考えてみたいのは、視るということにかかわる。竹村さんの亡くなった後で編集された本の中で、冒頭にふれた『彼女は何を視ているのか』がある。映像にかかわる文章を集めた同書から、私は改めて竹村さんにとって視るということが、極めて重要な行為であったことを知った。以下この視るという行為にかかわって、竹村さんのいう「新しい学問」の論点を考えてみたいと思う。

ところでこの『彼女は何を視ているのか』の「解説」で新田啓子さんが、映像を扱う竹村さんの論考を「映画学や映像芸術学の分野的(プロト)命題(コル)を、からなずしも共有してはいないといえる」と指摘しているが[20]、私もその通りだと思う。竹村さんの映像にかかわる問いは、研究分野ではなく、先ほどから述べている研究という行為自体にかかわる深いところにあるのではないだろうか。またそこには、やはり前述した言語的説明への違和という問題があるのではないか。そしてここにこそ「新しい学問」を考えるひとつの糸口があるのではないかと思う。竹村さん自身、自らを「活字人間」と述べた上で、映像を考えることが極めて重要であると述べている。すなわち映像の「喚起力」に注目し、また文学研究と映像のはざまのような位置において、演劇やパフォーマンスに言及している[21]。そのことを念頭に置きながら、次に非常に限定的な論点を考えたい。

本年(20014年)の6月に何回か連続で、「竹村和子を読む」という会をおこなった。その会で『彼女は何を見ているのか』に所収されている1996年に雑誌『イマーゴ』に掲載された「カミングアウトして、どこへージュディス・バトラーとレズビアン映像表象」を議論していた時、参加者の鄭柚鎮さんが、同論文の「再演」に「サイテ―ション」というルビが打たれていることを指摘した。この個所は、Gender Trouble(この論文刊行の時点で同書はまだ翻訳されていない)とBodies That Matter(『問題なのは肉体だ』後に表題は『問題=物質となる身体』と訳し変えている)に言及している部分だが、言葉を引用することと、身体行為を反復することを重ねるこの記述が、パフォーマティブという設定の最も重要な論点にかかわることはいうまでもないだろう。

しかし、にもかかわらず‘citation’を再演と翻訳するのは、強引であり、ルビとして重ねるとしても、戸惑いがある。いまここで、翻訳の強引さやルビの正しさを問題にしたいのではない。この再演という訳語に込められた竹村さんの、思考、あえていえばバトラーを翻訳することにおいて浮き上がる翻訳者としての竹村さんのある種の介入を考えてみたいのである。いいかえれば竹村訳において日本語化されたバトラーに、竹村和子さんの欲望を読みこんでみたいのである。

この訳語としての再演を考えるために、少し書誌学的な検討を行いたい。まず再演に「サイテーション」のルビを打ったこの論文は、1996年に発表されたものであり、この時点でバトラーがその一年後に刊行する1997年のexcitable speech(『触発する言葉』)で展開した議論を竹村さんがどこまで知り得ていたのかは不明である。すくなくとも引用を言語行為として集中的に論じている同書の第一章は、1997年に発表された論文が初出であるから、引用の問題は1993年に刊行されたBodies That Matterの序章で展開されている‘Performativity as Citationality’の個所を念頭においていると思われる[22]。やや乱暴にいえば、Gender Trouble(『ジェンダー・トラブル』)からexcitable speech(『触発する言葉』)への展開において、身体的反復と言語的反復の双方が絡まり合い、しかもそれがさらに竹村さんによる翻訳という行為において浮き上がるのである。再演に「サイテーション」のルビが打たれているのは、この絡まり合いと翻訳を反映したものだと考えられる。そして問題は、excitable speech(『触発する言葉』)にみられるように、オ―スティンを引きながら言語行為に議論を収斂させていったバトラーの展開に対して、翻訳者の竹村さんが、バトラーをどう再読し、翻訳したのかという点である。まさしくそこに、前述した竹村さんの不満が深くかかわっているのではないか。

こうしたことを念頭に置きながら、Gender Trouble(『ジェンダー・トラブル』)からexcitable speech(『触発する言葉』)に向かう、バトラーと訳者の竹村さんの軌跡を検討してみよう。結論的にいえば再演にかかわる文脈と引用にかかわる文脈は同じではない。また再演という訳語には二つの英語が対応している。まず訳書『ジェンダー・トラブル』において再演は、文字通りパフォーマティブを定義する言葉として用いられている。しかし同時に注目すべきは、そこに込められているのは、言語行為というより演劇性であるという点である。すなわちパフォーマティブを身体の「演劇的で偶発的な構築」[23]とした上で、それは、自由なパフォーマンスではなく反復されるパフォーマンスであり、「既に社会的に確立されている一対の意味の再演」(強調―引用者)なのである[24]。ここでの再演は、reenactmentの訳語として与えられている。

引用(citation)及び引用性(citationality)もまた、パフォーマティブにかかわるこの「既に社会的に確立されている」意味世界の反復として登場するが、それは先ほども述べたように、Gender TroubleではなくBodies That Matterにおいて登場する言葉だ。すなわち身体性における物質性は、言葉としての法の引用なのであり、引用するという反復において身体は物質化されるのである。したがって再演とは異なり、引用では言語的な反復が強調されているといってよい。この演劇性と言語行為の、重なり合うが同じではない文脈において行為遂行性(performativity)が設定されているのである。

そして問題はexcitable speech(『触発する言葉』)である。そこでは行為遂行性はまずもってオースティンの言語行為論から論じられており、反復は慣習的な言語上の意味作用に限定され、問題として取り上げられるのも言語表現であり発話である。かかる言語行為への焦点化こそが、竹村さんがいうように、同書が政治を打ち出した書となる理由であるともいえるだろう。そこでは、言語の反復が別の身体を構築する可能性でもあるということが重要になる。そして問題は、その可能性がどのように確保され、また政治になるのかということだ。この点にこそ、再演という訳語が抱え込んだある種の困難さがある。

訳書『触発する言葉』における訳語の再演には二つの英語が対応している。それはreenactmentとrestageである。しかもバトラー自身の文章において、この二つの用語の峻別は極めて厄介なものだ。竹村さんが『ジェンダー・トラブル』において再演と訳したreenactmentと極めて似た言葉としてバトラーはexcitable speechにおいてrestageを使い、そこに引用という言語行為の反復における別の身体性の可能性を検討しようとする。すなわち、反復される発話行為が別の身体性を作り上げる可能性として引用を検討したうえで、バトラーは次のように記す。「発話が演じなおされ意味づけなおされる」(restaging and resignifying speech)[25]

問題は発話行為による新たな身体にかかわる可能性が、どのように確保されるのかということだ。そしてそれは、竹村さんの第一の不満とも関わる。この可能性の確保という点について、バトラーはrestageとreenactmentを次のように微妙に使い分けている。すなわち言葉で人を傷つける中傷的な名称について、「その場面を再現させる記号を通して中傷を再演する」(the restaging of injury through signs that reenact the scene)[26]というのだ。場面を再現する(reenact)ことにおいて再演(restaging)が登場するのだ。

そしてこの用語の使い分けの意味は、次の文章においてより明瞭になる。それは抵抗の可能性にかかわってバトラーが次のようにいう箇所である。バトラーは「発話行為の力を、その中傷の力に対抗するように再稼働させる政治的可能性」に言及し[27]、次のように述べている。「発話がおこなう中傷に対抗しようとする言語は、中傷を再演させずに、中傷を反復しなければならない」(The language that counters the injuries of speech, however, must repeat those injuries without precisely reenacting them.)(強調―引用者)[28]。すなわち、reenactすることなく、反復(repeat)しなければならないというのであり、あえていえばこの抵抗としての反復にrestagingという言葉が控えていると思われる。しかしこの文章で竹村さんは、こちらのreenactingに再演という訳語を与えているのだ。

それは、訳語の混乱として片付けられることなのかもしれない。しかしわたしにはこれが、まさしく竹村さんの第一の不満と密接にかかわる問題と思えてならないのだ。前述したように、「訳者あとがき」で「身体レベルでの撹乱性は、新しい身体の構築としてではなく、従来の身体の破壊としても論じられなければならない」という竹村さんにとって、この反復における可能性と破壊の間にこそ、最大の注意がはらわれていたはずである。したがってバトラーが、repeat、reenact、restageという動詞を使い分けて可能性を担保しようとした点をどう訳すのかというのは、極めて重要な問題であったはずだ。そしてその上で、バトラーがreenactではなくrestageを反復における抵抗の可能性にかかわる動詞として用いようとしているときに、竹村さんはそれらを訳し分けることなく再演として引き取ったのである。ある意味でバトラーが概念的に動詞の使い分けをすることにより憎悪表現にかかわるパフォーマティブの政治を確保することに、竹村さんは訳語において留保をつけようとしているように思えるのだ。まるで、そのような行為の分類において政治は確保されない、とでもいうように。

私には、この発話行為の分類、すなわち動詞の使い分けにおいて政治を押し出すバトラーに翻訳者の竹村さんがいら立っているように感じる。前述した第一の不満で述べたように、問答無用の暴力の中にあって言葉の在処は、竹村さんにおいては言葉を失い傷ついた身体が刻み続ける、生きるという道筋において確保されていた。その言葉の在処は、すぐさま言語行為や動詞の分類に結果することではないはずだ。竹村さんにとってバトラーの動詞の使い分けは、この暴力という問いをあいまいにしたまま性急に言葉に寄りかかっているように思えたのかもしれない。

また動詞の使い分けへの留保は、第二の不満にかかわるオ―スティンの言語行為論がどこまでも個という枠を帯びるということとも深くかかわるだろう。そして演劇性への言及が含まれていたGender Troubleから言語行為に焦点を合わせたexcitable speechに向かう中で、バトラーが行為に個が帯電することを問題することなく動詞の使い分けにおいて政治を確保しようとしたのに対し、竹村さんは言語行為の手前の時点ですでに別のことを開始していたのである。それこそが、訳書『ジェンダー・トラブル』刊行前に執筆された、「カミングアウトして、どこへ」における、再演の(再)設定ではないだろうか。そしてそのような竹村さんであるがゆえに、excitable speechにつよい不満を抱いたのだ。

「カミングアウトして、どこへ」において再演に「サイテーション」という言語行為にかかわるルビを打った上で、竹村さんがそこに重ね書きをするように展開させている議論は、バトラーもrestageにおいて述べた場面性であり状況性である。もちろんそれが、反復としてあり、慣習的文脈が流れ込んでいる点で、その状況を時空間としてくくり出すことは極めて厄介な問題ではあるが、にもかかわらず反復は、言語行為であると同時に場面的、状況的なものである。逆にいえば、バトラーが言語行為に問題を収斂させ、あえていえばルセルクルが批判するような個を前提にした行為の分類に向かうのに対し、竹村さんは問題を状況性に押しとどめようとしているのではないだろうか。そしてその状況性こそ、視るということことにかかわるのではないだろうか。

『ジェンダー・トラブル』のreenactmentに再演という訳語を与えた竹村さんにとって、演じることに伴う場面性や状況性が、その訳語に既に含み込まれている。そしてこの演じるという動詞には視るという行為が前提として想定されていると思われる。したがってそれは個の行為ではなく、少なくともそれだけではなく、その行為にかかわる複数の視るという行為による関係性にかかわる。身体の動作を人々はそれぞれに視ているのである。それは受動的であり言語行為でもないが、複数の身体的行為であることは間違いない。この視ることは、舞台や映像の中での視線というだけではない。映像に映し出された場面を私たちは視ているのであり、再演はかかる意味で状況的でかつ関係生成的であり、言語行為と無関係ではないがそれに還元することは出来ない。竹村さんこの状況的で関係生成的な再演にこそ、行為遂行性が政治に結び付いていく道筋を確保しようとしたのではないだろうか。

                  ***

前述したように、この「カミングアウトして、どこへ」が書かれた時点では、まだ『ジェンダー・トラブル』の翻訳も刊行されていない。したがって再演という訳語は、翻訳作業の中で登場し、生き物のように動き出したといってもいいかもしれない。翻訳という言葉を言葉に置き換える営みの中で、それは翻訳しきれないものの在処を引き受ける訳語だったかもしれない。また竹村さんにおいて翻訳は自身の行為であると同時に、考える対象でもあった。2001年に発表された「『翻訳の政治』―誰に出会うのか」で竹村さんは、翻訳作業を「行為遂行的な雑種性の偶発的な生産」とした上で、かかる生産を、ホミ・K・バーバの表現を借りながら「夢見る」と述べた。「原本の意味からずれた翻訳は、何かを夢見ている」のだ[29]。言葉に置き換える作業が夢を見ることでもあるということ、あえていえばそれは、翻訳という二つの共同体を前提にした行為に、そのどちらでもない生を夢見ることであり、「境界を生きる」ことなのだ。バーバはそこに‘cinematic fantasy’という言葉を用いている[30]。再演は、やはりバトラーの文章の翻訳という行為において生まれた言葉なのだ。しかもそれは、翻訳をしながらその翻訳自体に留保をつけ続ける訳語としてある。翻訳作業で竹村さんも夢を見続けていたのだろうか。再演に、どの共同体にも属さない別の身体が宿ることを夢見たのだろうか。映画的幻想として。

映像を再演として視ること、あるいは視ることを言葉にすること。そこから生まれる言葉たちは映画分析や説明ではない。夢は分析された時点で夢ではなくなるのだ。再演は、視るという複数の経験が、言葉を持つことであり、それ自身が行為体である。かかる行為体こそ、竹村さんにとって、研究であり政治だったのではないだろうか。逆にいえば批判すべき既存の学問とは、学知のレベルでこの集団的な行為体の登場を統制する秩序でもあるのかもしれない。またこうした視るということは、竹村さんと交流のあったレイ・チョウの映画への思いとも重なるものがあるかもしれない。レイ・チョウがいうように映画は「複数の学問分野の間の書き換え」としてあり[31]、そこでは「言語テキストが絵に変化する」のだ[32]

竹村さんの視ることは、映像を説明し、視るという経験が行為体として動き出す前に意味を先取りすることを目指す表象分析や映画研究とは、接近戦のレベルで鋭く対立するだろう。こうした研究により映像は表象になり、同時にその意味づけを担う権威がたちあらわれるだろう。この権威の言葉が、啓蒙となるのだ。竹村さんの映像への注視は、こうした学知によって担われる啓蒙とは異なる政治を目指しているのであり、いいかえれば、視ることが行為体につながることを確保する作業こそが竹村さんにとっての研究なのだ。ここにおいて、先に述べたexcitable speechへの第二の不満は、政治を担う知識人への批判としてより明確になる。すなわち、言語行為を伝達に切り縮めた上で、あらかじめ想定された政治秩序において自らの啓蒙の位置を保とうとする態度と、政治秩序における代表性と遂行的な言語行為をごた混ぜにして、「表層的な<表象>遊戯」に陥る脱政治的な姿勢の二つの知識人のありようを、竹村さんは批判しているのだ。

『彼女は何を見ているのか』に所収されている2006年の文章「ローラ・マルヴィへの応答」において、視ることにおいて別の身体への変態可能性を述べた竹村さんは、かかる可能性を含意する視ることを穿視とよんだ上で、「穿視する観客」から「穿視する行為者」への転轍を夢見る[33]。観客が席から立ち上がり行為者になるのだ。これは一体いかなる事態なのだろうか。その集団は、夢を見ているが、それは均一な夢ではないだろう。しかし同時に同じ再演に抱え込まれてもいる。このような集団性は、個の属性的共通項をくくり出した集団とは全く異なるものだ。あえていえばそれは、映画への視覚から「集団的な夢の形象を創造すること」[34]を見出したベンヤミンにも通じる、新たな集団性ではないだろうか。またこの集団性の地点において、再演は制度批判としての政治として登場することになるだろう。くりかえすがそれは、竹村さんのexcitable speechに対する第二の不満と関わっている。

また身体の破壊の中で生き延びる者たちは、すぐさま語りはしない。ただ見つめ合うのだ。たとえばアルジェリアの解放闘争を描いた映画『アルジェの戦い』で、フランス空挺部隊に包囲され殲滅させられる解放戦線を、まわりの人々はただ視ていた。そこでは視ることは、言葉の否定ではない。言葉の継続であり、事後性を確保する行為だ。それはまた、個人の行為ではない、集団の夢がそこにはある。「再演=引用」は、単に二つの文脈の重なりということではなく、重層的な時間と共に身体と言葉を共訳不可能な形で確保し続けるのである。この確保されたプロセスにおいて、個と集団の既存の関係は変化し、新たな集団性、すなわち政治が生まれるのだ。竹村さんはそんな恐るべき企てを再演に、あるいは視るという行為に込めていたのではないかと思う。

乱暴な言い方であることはわかっているが、私はバトラーや竹村さんがつまみ食いのように言及され読まれているのが、とても不満だ。しかしそれには理由があるのだろう。すなわち両者が出した問いは、研究内容でもなければクィア・スタディーズといった学問分野に収斂することでもなく、学という制度自体にかかわる問題であり、知と政治という区分け自体を問うことなのだ。この点を読みとばしたまま、アカデミアにおいて断片的に言及されるのが不満だったのだ。そしてこの学知自体への問いにおける論点の一つが、この「再演=引用」に含まれているのではないだろうか。

正しさを啓蒙する良心的な研究者が見せる権威的態度。あるいはマスコミの露出度を競いながら人前で正しく説明することに脅迫的に囚われた知識人。私は、こうした人たちを、時には冷徹に、また時にはいたずら小僧のように、じっと視ていた竹村さんを知っている。今その視線を蘇らせたいと思う。視ているのは誰なのか。その者は、何をしようとしているのか。


[1] 小森陽一監修『研究する意味』(東京図書、2003年)所収。同書、145頁。

[2] 同、158頁。

[3] 同、160頁。

[4] 同、162頁。

[5] ジュディス・バトラー『触発する言葉』竹村和子訳、岩波書店、2004年、

[6] 同、13頁。

[7] 竹村和子「いかにして理論で政治をおこなうか」同、290頁。

[8] 小森『前掲』139頁。

[9] 竹村「いかにして理論で政治をおこなうか」(前掲)280頁。

[10] 同、288頁。

[11] 竹村和子「理論的会議から政治的協働へ、あるいは政権と理論」『境界を攪乱する』岩波書店、2013年、223頁。初出は、サラ・サリー『ジュディス・バトラー』(竹村和子・越智博美・山口菜穂子・吉川純子訳、青土社、2005年)の「訳者あとがき」。

[12]竹村「いかにして理論で政治をおこなうか」(前掲)290頁。

[13] Achille Mbembe, Necropolitics, Public Culture 15(1), Duke University, 2003.

[14]竹村「いかにして理論で政治をおこなうか」(前掲)291頁。

[15] 同、290頁。

[16] 同、290頁。

[17] 竹村和子『境界を攪乱する』(前掲)に所収

[18] 同、117頁。

[19] ジャン=ジャック・ルセルクル「レーニン、正しくも的確な者」長原豊訳『情況(別冊)』2005年9月、265頁。

[20] 新田啓子「解説 穿視(せんし)する(ひと)」竹村和子『彼女は何を視ているのか』作品社、2012年、281頁。

[21] 小森『前掲』151頁。

[22]Judith Butler, Bodies That Matter, Rutledge, 1993, pp.12-16.

[23] ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』竹村和子訳、青土社、1999年、245頁。

[24] 同、246頁。

[25] バトラー『触発する言葉』(前掲)37頁。Judith Butler, excitable speech, Rutledge, 1997, p.23.

[26] バトラー『触発する言葉』(前掲)57頁。Judith Butler, excitable speech, Rutledge, 1997, pp.36-7.

[27] バトラー『触発する言葉』(前掲)63頁。

[28] バトラー『触発する言葉』(前掲)63頁。Judith Butler, excitable speech, Rutledge, 1997, pp.40-1.

[29] 竹村『境界を攪乱する』(前掲)389-390頁。

[30] Homi K. Bhabha, The Location of Culture , London and New York, Rutledge, 1994, p.226.

[31] レイ・チョウ『プリミティブへの情熱』本橋哲也・吉原ゆかり訳、青土社、9頁。

[32] 同、34頁。

[33] 「ローラ・マルヴィへの応答」竹村和子『彼女は何を視ているのか』(前掲)251頁。

[34] ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品(第二稿)」『ベンヤミンコレクション1』(浅井健二郎編訳、久保哲司訳)筑摩書房、1995年、620頁。








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