2011.02.03 Thu
家族神話の再生を止める—私たちはなぜ家族を批判せねばならないのか
1.29東大シンポ報告 牟田和恵
「家族」をめぐる論考やシンポジウムは珍しくないが、今回のシンポは、哲学・思想領域の男性研究者たちが主催、という点で、注目すべきものだった。しかもシンポのタイトルは、「家族 自由の原点~一つの神話として」というもの。「神話」という断り書きはついているものの、家族が自由の原点であるとはどういう意図なのか?しかも、ゲスト報告者・コメンテータとして壇上に迎えられたのは、宮地尚子さん(精神医学)・岡野八代さん(政治思想史)・上野千鶴子さん(社会学)という、フェミニズムの立場から既成の家族のあり方の抑圧、男性中心主義を鋭く批判してきた面々だ。いったいどんな議論が展開されるのか、大いに興味がそそられた。
主催者で第一報告者の高山守氏(東京大学・哲学)は、夫婦・子供よりなる家族を、いわゆる「家族」、と前提したうえで、それが近年恒常的に減少している一方、別姓を選ぶ夫婦、事実婚、同性婚、離婚・再婚による家族形成、一人親家庭等の増加等により、「家族が衰退・崩壊」しつつあるようにうみえるが、しかし、家族への希求は根強いと論じる。そして氏は、日常的に「家庭」の空間を共有する家族は、精神的なつながりのみならず、「一つの拡張された身体」として生きうること、それが人間そのものの生きる場、自由のありかとなりうると主張する。
高山氏のこの問題提起には、当然のように、他の報告者・コメンテータから批判や問いが加えられた。夫婦が「一つの身体」などというのはDV夫の強弁の論理そのものであること(宮地氏)、そこで前提とされている「自由」概念に潜む男性中心主義が再考されねばならないこと(岡野氏)、今このように家族神話の再生が意図されている意味を考える必要があること(上野氏)等、いずれも、私自身、まったく共感するコメントだった。
しかしそれでもなお、高山氏は、フェミニストたちのそのような家族批判には首肯しない。そうしたネガティブな側面を家族が持つことが現実にあるとしても、だからと言って、家族が本来持ちうる価値が認められなくなり、家族が否定されてしまうのは、角を矯めて牛を殺すような本末転倒だ、そんなことにならないよう、フェミニストたちの視野の広いとは言えない家族批判に抗して、家族を救う議論をしなければならない、、、。氏の論の中核にある「哲学的自由論」について私の理解が十分に及んでいないこと、また、私の解釈を多少混ぜることをお許しいただけるならば、氏はそう主張したいのだと思う。
「家族の価値」は、これまで、いわゆる保守派が声高に主張してきたところで、男女共同参画やフェミニズムに対抗するバックラッシュの中でもさんざん繰り返されてきた。夫婦別姓に反対し、「男らしさ」「女らしさ」を画一的に強要、女性の権利や平等への願いをあからさまに抑圧しようとする勢力がかならず訴えるのが「家族の価値」で、フェミニストは国家社会の基礎たる家族を破壊しようとする者だと糾弾されてきた。
高山氏の意図するところは、もちろんそれとは異なる。夫婦別姓にしろ女性の社会進出にしろ同性婚にしろ、反対する意図はまったくないだろうし、家族を国家の基礎として捉えるような発想は、自由のありかとして家族を捉える氏の意図とは対極的なものだろう。男性中心的に家族を構想する気持ちもさらさらなく、夫婦や親子が互いを尊重しつつ思いやり愛情を育む場としての家族—こんな表現ではナイーブ過ぎるとお叱りを受けるかもしれないが—それを氏は擁護したいに違いない。
そう、そんな家族なら、何が悪いだろうか?そうした家族は、すべての人々が望むところではないか。現実の家族がみなそれを実現できているわけではなく、フェミニストたちが批判する通りの家族も少なくないけれども、だからといって家族を否定するのではなく、むしろ善き家族が実現できるような条件を作っていくべきではないか。—-高山氏のように哲学的思考に基づかなくとも、多くの人々が素朴な実感としてそう考えるに違いない。DV夫に苦しめられやっとの思いで離婚したシングルマザーのように、既存の家族の抑圧を経験していても、「次はいい男性にめぐりあって素晴らしい家族を築こう」と思っている人は少なくない。
しかし、まさにそれが神話なのだ。現代の私たちが素直に思い浮かべるそうした「善き家族」「素晴らしい家族」は、たとえ実現されたとしても、いや、実現されるときにこそ、私たちから多くを奪い、失わせる。夫婦や親子の間での情愛や温かさをもっとも善きものとみなし血縁や性愛のつながりを絶対視することは、よりひろい人々とつながる可能性を阻害し、人が生きる力を奪う。現代の住まいの構造やあり方について、児童虐待の問題に関連して閉鎖性・密室性の弊害が指摘されることがあるが、そのような問題とは無縁の家族であれ、住まいが「家族の団欒」の場であることが重視される一方で、夫婦親子の家族以外の者が入ってくることを容易には許さない、排他的・閉鎖的な空間になっている。社会の「基本単位」として、生計の維持、育児や介護を自己完結的に担わされているが、おとながたった2人しかいない家族はきわめて脆弱で、そこに生きる人々の生を長い期間を通じて安定なものにするにはとても不十分だ。そこで育つ子どもたちも、いくら親の温かな愛情に包まれていようとも、親以外には教師くらいとしか親しく接することがなく、多様な人々の中で力強く生きる術を学ぶ機会を奪われている。
未婚化晩婚化の進展や高齢化によって、夫婦親子の「標準的」家族を政策や社会保障の基礎とすることが、それ以外のライフスタイルを生きる人々に不利益をもたらしていることはすでに論じられてきた。それは正しく重要な指摘だが、しかし、優遇されているはずの「標準的」家族自体も、まさに、そのために生きる力や可能性を奪われてきたのだ。最近、「孤独死」や「無縁社会」といった言葉がマスメディアでもしばしば論じられ、人々の不安をかきたてているが、そうした現象は、人の生きる支え・よすがを、極小の人間関係である親子や夫婦の家族に負わせ、それ以外の人間関係をつむぐ機会が構造的に奪われてきたことの結果に他ならない。人が生まれ、育ち、はたらき、そして老い衰えていくプロセスを通じて安定して生きられ、そして次の世代に生をつないでいくには、自明とされてきた家族を超えるつながりがどうしても必要なのだ。
家族を超える、より広い人と人とのつながりが実現し人々の生きる基盤が広がるとしても、夫婦親子の「家族」形態がまったく消滅することはないだろうし、そこに温かで善き人間関係も育まれていくだろう。それが望ましいことなのは言うまでもない。しかしそのとき、その「善き」家族は、人にとって唯一特権的なものであることをやめる必要があるし、その条件ができて初めて、私たちにとって真に望ましいものになるだろう。その展望無しに、今、「家族」の価値を称えることは、私たちを陥れてきた罠、縛ってきた神話を永らえさせることに他ならない。日本哲学会では今年度大会で 「現代における家族/親密圏」と題したシンポジウムが予定されているとのこと。より広い学問領域で家族の問題が論じられるのは歓迎すべきことだが、家族神話が新たなかたちで再生強化されることなきよう、私たちはしっかりと見守っていかねばならない。
2011年1月29日 科研費プロジェクト「哲学・芸術・国家」主催、哲学会共催
「家族 自由の原点 一つの神話として」シンポジウム
(於東京大学本郷キャンパス法文2号館1番大教室)に参加して
以上の論考に興味をもたれた方は、牟田和恵『ジェンダー家族を超えて—生/性の政治とフェミニズム』、牟田編『家族を超える社会学—新たな生の基盤を求めて』もご参照ください
カテゴリー:個人のレポート