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認知症に不足するものは楽しい思い - 高林実結樹

2013.06.05 Wed

第1話 ~認知症予防運動を始めたわけ~
NPO法人認知症予防ネット理事長・高林実結樹(みゆき)です。
現在はほとんど毎日、休む間も無いほどに認知症予防、脳活性化リハビリゲームの広報とゲームのリーダー養成を目指した活動に打ち込んでいます。
このような生活に入ったのは、元はといえば母が認知症になったことからです。

 1978年(昭和53年)だったと思います。病院の先生から、母がアルツハイマー型認知症(当時は痴呆と言われていた)と診断され、うんちを食べるようになって死ぬのです…、と聞かされました。我が母にそんなことはさせない、と決意して、その時が今日か明日かと怯える生活に突入したから大変でした。軽度だった母は「そんなに監視しないで」と悲鳴をあげるほどに、母を追いかけ見つめ通していました。お医者さんの指導に過剰反応していた愚かな在宅介護。それが認知症予防運動をはじめた私の原点です。

お医者さんの話には疑問を一杯感じました。母には当てはまらないのです。
まず、患者本人には病識がない…
ウソです。母は自分から「頭がぼーっとするから治してほしい、お医者さんに連れて行って」と言ったのです。頭の中の変化=病状に自覚がありました。お医者さんの常識と反対でした。

アルツハイマー型は日本人では少数であると言われていました。母は日本人では少数派なのか、と疎外感をもちました。これもウソ。研究がされていなかっただけ、正しい統計もなかったのです。その後アルツハイマー型が多いと言われるようになり、通説はひっくりかえりました。
優しくするしか薬はありませんと、言われました。優しくですって? どうすること? 普通じゃいけないの? 私は母につらくあたってぼけさせたの? そうです。私は世界一の親不孝者と決めつけられたと思いました。母をぼけさせた…、大きな罪悪感で潰れそうでした。これもウソでした。誰でもかかる可能性のある病気だと今では言われています。

うそばかりの昭和時代の認知症についての社会通念。社会通念は恐ろしいです。病院では皆からじろじろ見られる、冷たい視線、親不孝な私と人間オシマイと言われた人間でない母!傷を舐めあい慰め合う介護家族たちのつどい。病院の屋上で泣いていたら慰めてくれた知らない人。人間って皆やさしいのですね。
 当時「ボケ老人をかかえる家族の会」がありました。1983年(昭和58年)母を在宅で見送ってからの私は、その会の京都支部の世話人となりました。電話見舞い係りを引き受けました。介護者の名簿を見て毎日順番に、全会員にお見舞い電話をかけ続けました。

電話って不思議なものです。介護の現役中に私は電話相談に電話を掛けてイヤな思いをした経験がありました。介護相談電話では、みくだしたように「うん、うん、おばあちゃんのこと?」だなんて口調になられるとバカにされたようで、物を言う気力をなくします。その体験を反面教師として、私は相談電話でなく、お見舞いに徹した電話をかけ続けました。「大丈夫ですか? 辛い時は電話をくださいね。何か参考になる情報があるかもしれないし、お手伝いが出来るかもしれませんから。1人で悩まないでくださいね。」
そのように自分の信じるお願いばかり言い続けました。回数を重ねると信頼関係が生まれます。私が傾聴だけでなく、このように話しかけたらどうでしょうと提案すると、ああ、やってみる。そのように話してみる、と言ってもらいました。半信半疑の声でしたが、後日電話があって、「教えてもらったように毎朝言っていたら、なんだか穏やかで、<済まんな、世話かけるな>とはじめて言ってもらった…」と聞いた時は、体験からの提案でよかったのだなと自分の方針に安心しました。在宅介護の共感を基本にした電話見舞いで信頼関係ができると、SOSの電話が入るようになりました。
*介護中の主婦が入院手術のために、姑さんの施設入りを願っても認めてくれない夫への説得。*通院の付き添い支援 *姑さんの行動に逆上しそう、どうしたら良いの、との訴え
*気分転換。息抜きのため介護代理留守番
誠心誠意で応えました。介護疲れによる最悪の悲劇を防ぎたい一心でした。
(続く)

カテゴリー:認知症予防ネット

タグ:老後 / 認知症 / 高林実結樹