エッセイ

views

939

【特集:衆院選⑧】財源論と憲法9条        早田リツ子

2009.08.23 Sun

 政治とは何かという根本に遡及しつつ現状に対処し、未来社会を構想する理念をもった政治を、私は切望してきた。もっともこの分野の知識を持ち合わせていないので、それを的確に言語化できないのが残念である。そこでとりあえず、この国の政治の指針である憲法に目を向け、国が憲法を遵守しているかどうかをチェックする必要があるのではないかと考えてみた。選挙はその意味でも好機である。

 今回、有権者の関心は年金や医療、雇用、子育て等に集中している。たしかに私も60代になって、これほどまでの生活不安を目の当たりにするとは思わなかった。自分自身の行く末もさることながら、一番の衝撃は次世代が将来像を描けなくなったことである。彼らの未来を閉ざしたのはまさに現行の政治であり、それは国がいくつもの憲法違反を行っている結果であるといえないだろうか。 これまで私たちは耳にタコができるほど「財源不足」を聞かされてきたので、たとえば社会保障の充実を望むならば消費税等の負担増しかない、などと説明されると、すぐに納得しそうになる。しかし自分の財布の中身が危うくなれば、まずは何が不可欠かを再検討し、さらには生き方そのものを再考するのが、まっとうな対処法というものだろう。こういう時こそ「国家の財布」の判断基準として、憲法をじっくりと参照すべきではないかと考える。

 税金の無駄遣いはどのような場合でも許されないが、ただし「小さい政府」か「大きい政府」かというような、表面的で二者択一的な論法で迫る政府の説明を鵜呑みにするのは止めようと思う。どちらにしてもそれは本来、基本となる「哲学」に支えられて総合的に諸制度がかみ合い、住民の安定した暮らしが保障されるものでなければならないはずである。

 ところで私にとっては年来の素朴な疑問であるが、年間5兆円に近い防衛関連予算は、憲法9条に抵触しないのだろうか。

 戦争が数多の悲劇を生み出し、自衛・専守防衛を標榜しない軍隊など存在せず、軍隊は「個々の国民を守るものではない」という事実を、戦争体験世代が身に染みて理解し反省していた1947年8月、当時の文部省は「あたらしい憲法の話」を発行し、翌年度から4年間、全国の中学1年生に学ばせた(今思えば奇跡…)。久し振りに手持ちの「復刻版」(72年発行)を開いてみると、「六 戦争の放棄」の中にイラストがあり、「戦争放棄」と白抜きの文字が入った大きな甕?の中で、戦闘機や爆弾が煙をあげて「焼却処分」されている。そして国は、これからは軍備にお金を使わず、国民の生活を豊かにするもの(当時を反映して立派なビル、電車、船、消防車、鉄塔が描かれている)に使うと表明しているのである。

 既成事実の積み重ねで防衛「省」にまで昇格してしまったが、だからといって防衛関連予算を既定の予算項目として当然とせずに、何度でも立ち止まって考えたい。国や政治のあり方について政治家も有権者も熟考し、現状点検を済ませてはじめて、私たちは負担すべきは負担する覚悟を決めることができるのである。ちなみに「9条」の存在が(それは常に危機にさらされてきたにもかかわらず)、私たち戦後世代にとって、何ものにも換えがたい「安心安全」の拠り所であったことを、今あらためて痛感している。だから私は前掲の教科書のように、「戦争の放棄、戦力の放棄」の原点に立ち戻り、軍備に費やす税金を他に回すべきであると考えている。

カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:憲法 / 早田リツ子