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部落のおばあちゃんから学んだこと 多田恵美子
2009.09.03 Thu
私は、1975年に初めて部落へ足を運んでから1992年まで、500人位のおばあちゃんたちのお話を伺ってきた。今は、語り手のほとんどの方が故人となってしまわれた。おばあちゃんたちは、話の後、口々に「今、口惜しいのは字イを知らんことや。字イ知ってたら、うちらのこと書いてあんたに渡したい」と言うのです。このおばあちゃんたちの語りを、字を取り戻す識字の教材にしたい。その思いが実現したのが昨年の識字教材「命ひとつもろた」(ききとり識字教材化委員会)です。出来上がった273作の「語り」のうちの59作が、女の一生をたどる形で構成され、編集されています。しかし、残りの「語り」も貴重な女の証言です。手を加えずに、生の声をそのままに構成して「語り」として残したいと思いました。「語り」は、生きた歴史を学ぶことにつながると考えるからです。 私自身は、おばあちゃんたちの語りから「音楽について」「部落問題について」「女性差別について」気付かされ、教えられてきました。
1975年、私は音楽大学の卒業論文作成のため、地元に伝わる唄(音楽)を採譜し、その背景を調べていましたが、そこが部落であろうとなかろうと、私にはどうでもよかったのです。音楽しか頭にありませんでした。調べるうち、歌い手にとって音楽(唄)はあってもなかっても良いものではなく「歌うことで仕事が楽になり」「歌うことで勢をつけ」「唄なしでやってこれんかった」ことがわかってきました。唄で命を紡いできた生活があった。歌うことは生きることそのものであった。ここに人と音楽の根源的なかかわりを実感し、学校教育の音楽とは異なる、本来の音楽の在り方を教えられました。
また、唄の背景を見るうちに、部落差別に突き当たったのです。ある部落では、守唄が78節も残っていました。部落の周辺地域と比較するため、部落以外の地域の聴き取りをしました。すると「守奉公へ行っていた守子は、紡績工場の女工になっていった」ので守奉公は無くなり、守唄は消えてしまっていたのです。ところが、部落の守子は雇ってもらえなかったので社会的に取り残され、部落の守子の存在が守唄を残したのです。
このように、部落のおかれた状況を何も知らない私を、語り手のおばちゃんたちは、呆れながらも、決して責めなかったのです。ひたすら自分自身が受けた差別の体験を語り、わが子が受けた結婚差別について語り、村全体が盆踊りを通して生き抜く力としていた現実を、語ってくれたのです。そのことによって、人が人を差別するのはどういうことなのか、自分はどこに立っているのか、立とうとするのか、考えさせられました。「語り」の事実の重みが、切実な思いが鈍な私の胸にも響いて来たのです。
その上、おばあちゃんたちが自分の人生を目の前に広げるように語ってくれたことで、私の中に長い間くすぶり続けていたものが何か、鮮明に見えだしたのです。「女性差別」に気づかされたのでした。おばあちゃんたちが産む性として生きる辛さ、女の立場を生きる苦しみは、同性として私や私の母に繋がることでした。大きなゆさぶりでした。
このような「語り」は、私費を投じても残しておきたいと思い、製本いたしました。非売品で、費用の関係から50部しか作っておりません。
限定50部で残り少なくなってきていますので、(1)図書館でご覧になるか(2)置いてほしい大学図書館なり場所がありましたら、その必要性や住所を書いて、メールをくださるようにお願いします。私のほうからお返事し、納得すればお送りいたします。それまでに本が残っていなければ、申し訳ないのですが、お送りできません。
「被差別部落の聴き書き‐女たちの証言」(上)350頁(下)347頁。
尚、「唄でいのちをつむいで」ただえみこ著(青木書店・2000年発行)も、ご購入いただければありがたいです。歴史編集者懇談会(岩波書店、東京大学出版会、法政大学出版会、吉川弘文館など)から「歴史家にはなしえなかった仕事」として2000年度の大賞「光る風歴史図書賞」を受賞しています。
メール・アドレス tatata009アットnike.eonet.ne.jp (アットを、@にしてください)。