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書評にふれて、須賀敦子と田辺聖子と やぎ みね
2009.10.01 Thu
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<p> 「書評でもなく、エッセイでもなく」、須賀敦子の書評本『本に読まれて』は、まさにそんな感じ。書き出しは過去の思い出、日常の出来事、あるいは本格的な本の思想から入っていき、やがて本の森の中へと分け入る愉しみを語り、須賀敦子の、すそ野の広い教養が次々に展開されていく。</p>
<p> 「仕事のあと、電車を途中で降りて、都心の墓地を通りぬけて帰ることがある。春は花の下をくぐって、初冬のいまはすっかり葉を落とした枝のむこうに、ときに冴えわたる月をのぞんで、死者たちになぐさめられながら歩く」という書き出しは、佐野英二郎著『バスラーの白い空から』の書評。<br class="clearall" /><!–more–> その後にドキリとするような言葉が続く。「日によって小さかったり大きかったりするよろこびやかなしみの正確な尺度を、いまは清冽な客観性のなかで会得している彼らに、おしえてもらいたい気持ちで墓地の道を歩く」。須賀敦子は、その時、すでに死者の視点から自分を俯瞰してみていたのだろうかと錯覚する思いがある。</p>
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<p> 須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』での遅すぎたデビューと、あまりにも早すぎた死。あともう少し、彼女の著作を読んでみたかったと思うのは私だけではない。</p>
<p> 田辺聖子の『ほととぎすを待ちながら 好きな本とのめぐりあい』は、また一味、違う趣がある。さすが小説家。自伝や手記にありがちな客観性のなさにも、立派な小説のタネを読み取っていく。主人公が喜びや悲しみを読者に与えつつ、しかし主観に溺れず、したたかに相手を描写しつくしていることを決して見逃さない。</p>
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<p> ローレン・バコールの自伝『<a href="http://amazon.co.jp/dp/4163392009">私一人</a>』には、夫・ハンフリー・ボガードやフランク・シナトラが出てくるが、バコールの「「自分のことも自分で分る」、この現在位置が分るというのも、小説と手記の一線を劃する部分だろう」と喝破する。そして「自分だけに興味を発動するのが<手記>で、周囲の人間に飽くなき関心と分析力をもつのが<小説>――という図式もできないだろうか」と書く田辺聖子は、まさにその意味で、小説家なのだ。</p>
<p> その筆先は堤玲子著『わが闘争』(昭和42年初版)に及ぶと俄然、熱を帯びる。私もまた学生時代、本屋の書架で見つけて読んだ時の衝撃は今も忘れられない。五木寛之の帯文「美しいはらわた讃」を紹介し、紙数を割き、この異端文学を採り上げる。内容は読んでのお楽しみ。田辺聖子の人間讃歌の「おすすめの一冊」だ。</p>
<p> 誰か作家の一人が言っていたな。「この部屋いっぱいに本を埋めつくしても、残りの人生、どれだけの本が読めるだろうか」と。確かに膨大な「おすすめの本」を目の前にして、途方にくれる思いもするけれど、やっぱり本は読みたいな。</p>