エッセイ

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名前の脱ぎ方、着替え方      荻野美穂

2009.10.12 Mon

 政権が変わって、来年度の国会に夫婦別姓選択制を含む民法改正案が提出される可能性がぐんと高まってきた。今度こそ、ぜひ改正が実現してほしいし、そのためにわたしたちも働きかけねばと思う。そのことをまず確認したうえで、名前とアイデンティティの関係についての私の個人的な体験を書いてみたい。 じつは私はこれまでに何度か、名前を着替えてきた。生まれたとき、両親がつけた名前は「美穂子」だった。生まれたのは中国で、第二次大戦で日本が負けた後、生後すぐに日本に引き揚げてきた。帰国してから祖父が私の出生届けを役場に出しにいき、間違って「美穂」と届けてしまった。でも子ども時代の私はこの戸籍上の名前がいやで、自分は本当は「美穂子」なんだと思い、ふだんはずっとそれで通していたし、周囲からもそう呼ばれていた。苗字についても、硬い感じのする字や発音が好きではなかった。だから、結婚して夫の姓の「荻野」に変わったときは嬉しかった。

 子どもを産んだ後、30代でフェミニズムに出会い、大学院で女性史の勉強を始めた。研究者の卵として論文を書くようになったら、「荻野美穂子」という名前の持つ、とりすました優等生的な雰囲気が、自分の気分としっくり合わない気がしてきた。いつのまにか私は「美穂子」から、もっと肩肘張らずに生きたいと願う「美穂」に変わっていたのだ。夫ともしっくり行かなくなっていたので離婚したのだが、そのときに婚姻中の姓をそのまま使い続ける手続きをし、私は晴れて「荻野美穂」としての道を歩き出した。自分の中身と外側とがようやくぴったり合って自由になった気がして、離婚と同じくらい、このことも嬉しかった。

 この名前であることの問題点は、しょっちゅう「はぎの/萩野」さんと間違って呼ばれたり、書かれたりすること。いちいち訂正するのも面倒だし、細かいことにこだわってるみたいでいやな気分にもなる。それと、私の研究テーマとの関連で、「あのオギノ式の荻野久作博士のご親戚ですか」という質問を受けることも多い。まあこれは、「いいえ、残念ながら縁もゆかりもありません」と答えればすむので、ご愛敬の範囲だ。

 日本では、戸籍に登録された名前は結婚改姓や特別な事情のある場合を除いて、基本的には一生変えられないことになっている。そのうえ名前に使ってもよい漢字というのも決められていて、親が子どもにそこに含まれていない字を使った名前をつけると、役所で出生届を受け取ってもらえない。それでいて、戸籍には名前をどう読むか(発音するか)は書かれないので、たとえば「右」と名前をつけて「ひだり」と読んだって「まんなか」と読んだってかまわないという、ヘンテコな制度だ。ということは、親から与えられた自分の名前が好きでない人は、少なくとも読み方のレベルでは、自分の好みに合わせて変更するという手もあるかもしれない。

 最近、例外的に名前の変更が認められるケースとして注目されているのは、性同一性障害(GID)の人たちだ。戸籍に登録された性別と性自認とが合わないために苦しむGIDの人々は、これまでも通称を「女の名前」から「男の名前」(あるいはその逆)に着替えることで、せめてもの矛盾の解決をはかってきた。2004年にようやく、性転換手術など一定の条件を満たしていれば戸籍上の性別変更を認める法律が施行され、名前の変更もおこなえるようになった。もっとも、現に結婚している人や過去の結婚で子どものいる人には性別変更を認めないなど、あれこれ厳しい条件がついているので、この法律によっても救われない人はまだたくさんいるのだけれど。

 でも世の中には、GIDではなくても、親が勝手につけた自分の名前がどうもしっくりこないと感じている人も少なくないだろう。名前は個人のアイデンティティと深く結びついていて、夫婦別姓選択制の導入が求められるのもそのことと関係している。でも、アイデンティティと切り離せないからこそ、生まれ持った自分の名前を変えたくないと願う人がいると同時に、自分の名前に違和感や居心地悪い思いを抱きながら、やむなくつきあい続けている人もいるはずだ。

 昔の日本には、子ども時代の幼名を成人になるときに新しい名前に変えたり、結婚や出世を機会に改名したりという、ヘビの脱皮のような便利な習慣があったのに、戸籍制度の確立によって失われてしまったのは、とても残念な気がする。名前は個人のアイデンティティ、だからこそ、もっと選択の自由を!と思う。

カテゴリー:ちょっとしたニュース / 夫婦別姓

タグ:荻野美穂