エッセイ

views

1874

【特集・装うことから考える・その4】「女装」をやめたときの話   桂 容子

2009.12.31 Thu

 女性ばかりの職場で働いた時期が長く、その頃は、結構、自由な服装をしていた。その当時の私について、「よれよれのジーンズ姿しか思い浮かばない」と笑う友人もいるが、実は、結構、フェミニンなスカートなどもはいていた。その時の仕事の状況や気分で、着る物を決めていたのだと思う。

 が、そこを辞めて、役所の非常勤の仕事に就いたときから、私の服装は非常に不自由なものになった。別に、厳しい服装規定があったわけではない。自分の好きな服を着ていけばよいので、誰にもとやかく言われることはない。が、私はここで自ら、自分の装いに規制をかけたのだった。 それまで、長年、女性ばかりの職場にいた私は、男性といっしょに働いた経験が久しくなかった。が、役所というところは、男性も働いている。と言うか、どちらかと言うと、男性の方が多い。そして、その風景の中で見る女性達に、私はこれまで感じたことのない違和感を感じたのだ。なんと言えばいいのだろう。女性達は、特別に「女」という立場に立っている、と感じたのだった。男性の多い職場で、女性達は、「女性」を演じているように見えた。

 それまでの職場では、スタッフも出入りする人も女性ばかりなので、特に「女性」を演じる意味がない。もちろん、女性だけの職場だからといって、そこで働いている人が、全く「素」であったとは思わない。それぞれのポジションに適合した振る舞いというものを身につけ、ありたい自分、見せたい自分というものがあって、そのコードに沿った言動を選択していたと思う。が、そこに「女性」を演じる、というコードはなかった。私は、時にスカートもはき、時にアクセサリーもつけ、装いたいように装っていたし、出入りする女性達も様々な人がいたが、この役所の女性達から感じるような、過剰な「女」の匂いはなかった。

 が、男性の働く職場には、女性による「女性」コードが行き渡っていた。もちろん、誰も強制しているわけではない。女性達も、様々な服装で働いていて、特に男性に媚びているわけでもない。しかし、「女」をやっているのだ。男性に対して、女性でいることを期待され、その期待に応えている、という感じだ。匂い立つように「女」だ。

 私は、そこで働くことが決まったとき、市の男性管理職に引き合わされたが、その人の私の第一印象は、「なんというか、ちょっと変わった女の人だね」だったそうだ。ごく普通に挨拶をし、普通に受け答えをしたつもりであったし、そもそも、私はあまり変わり者のように言われることはないのだが、そういう感想を抱かれたらしい。それを聞いた私は、「どこが、変わっているんでしょう?」と、私の採用を決めてくれて、その管理職に引き合わせてくれた当時の女性上司に尋ねた。上司は即座に答えた。「媚びていないからでしょ」と。

 私は、いつも毅然としているような、そんなかっこいいタイプの女ではない。むしろ、挨拶こそ潤滑油みたいに思っているところがあり、結構、気分良く機嫌良く、人と接しているつもりだ。しかし、「媚びていない」と上司に言わしめた態度は、どのようなものだったのだろう。思うに、それが「女性」コードを踏まえていない、ということだったのではないかと思う。

 その職場で働きながら、私はこの違和感を考え続けた。「女性」コードと私が呼ぶものは、男性に対して、「私は女です」という信号を発信している、ということだ。たとえば、全く個人的関心のない男性に対してであっても、女性達は「私は女」メッセージを送る。なぜなら、職場で、この社会で、男性はたいてい力を持っている側なので、その力のある男性に嫌われないために、女性達は無意識のうちに、「女性であること」をアピールしているのではないか。男性に対して、「私はあなたの邪魔をしない「女性」というカテゴリーの者ですよ」「あなたは、私を警戒しないでよいのですよ」「私は、あなたの敵ではなく、むしろ性的対象の「女」なのですよ」と、女性達は男性に向けて、懸命に「女」アピールをする。そうすることによって、職場で、社会で、生き残ることを許されてきたのではないか。女性達は、無意識にそのような合図を送っているのではないか。だから、過剰なほどに「女」が目立つのだ。

 が、久しく男性のいる職場を知らなかった私は、その女性特有の合図を身につけていなかった。まったく無防備に、男性管理職の前に立った。極めて礼儀正しく、しかし、自分の「女性性」を全くアピールしない「まんま」のスタンスで。男性管理職は、その私を、奇妙に感じたのだろう。「女性」コードを身につけた女性しか見たことのない管理職には、「うまく言えないが」「何か変わった女の人」という印象を抱いたのだろう。もちろん、私から見れば、他の女性の方が、過剰で、つかみどころのない媚びがあって、奇妙なことこの上なかったのだが。女性が「女性」であることを懸命にアピールする職場というものは、実に異様な風景だったのだ。

 私は、そこで、「女装」しなくなった。「女性である」という過剰なメッセージが行き交う風景になじめなかった。それまでは何気なく着ていたフェミニンな服を一切着なくなった。常に、ダークな色のパンツとジャケット。エレベーター待ちをしているときなど、他の課の課長さん(男)に、「いつも、そういう恰好なんですか」と言われるほどに、徹底していた。ま、男が女にそういうことを言う職場であった、ということだが。

 男性のいる職場では、ただ「働く人」というニュートラルな存在ではいられない。「女」という色つきの存在になる。その色を、自ら身にまとうことに抵抗したのだと、当時を振り返って思う。「女」にされたくない、という一心だったように思う。ヘテロセクシズムの世界の中で、服装の不自由さを自ら選んだ時期だった。

 最近、時々スカートをはく。ちょっと、解放されてきたようだ。やれやれ・・・。

カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:ファッション / ジェンダー / 桂容子