エッセイ

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【特集・家族の多様性を考える・その2】家族介護ではなく人とのつながりで 大森順子

2010.01.22 Fri

 今から15年前、すでに離婚していた私は、小学生の娘と二人で両親と同じ団地の別の棟に住んでいた。私の父は40歳代の時から何度も脳腫瘍の手術をして、晩年はほぼ寝たきりとなった。その父をほとんど一人で介護してきた母が、父より先にくも膜下出血で逝った。私は一人っ子で、親戚は全員東京に住んでおり、そもそもほとんど付き合いもない。私は父に、これからどうしたいかをまず聞いた。父の返事は「このまま家で暮らしたい」。 幸い、父は寝たきりとはいっても、時々体位を変える必要があるぐらいで、ずっと見ていなければならないという状態ではなかった。私は自分の仕事のやり方を大幅に組み替え、昼間はできるだけ父のそばで仕事をしたが、夜は自宅に帰って眠りたかった。

 そこで考えた。友人を30人集めて、月に一度ずつ父の家に泊まりに来てもらえば、私は自宅に帰れる。月に一度ぐらいの外泊なら、そんなに負担を感じずにやってもらえるのではないか。以前に聞いた重度の障害を持つ人の体験を思いだして、同じように考えたのだ。

 急遽、父の生活を支える会が結成された。一人娘の私が介護を一身に担うということだけは、絶対にしてはいけないと強く思っていた。そこで、私の友人代表、父の友人代表、母の友人代表が集まり、プロジェクトチームを組んだ。現在の父の様子と日々のスケジュール、私がしてほしいこと、などを書いたものと郵便振替の振り込み用紙、何ができるかを問うアンケート用紙、等を一斉に知り合いに郵送した。

 その結果、父の友人たちはお金を振り込んでくれた。母の友人たちは、昼間に動ける人が介護に来てくれた。私の友人たちはみんな仕事をしているので、夜に泊まりに来てくれた。そのおかげで、私は昼間も時々出かけたり仕事に集中でき、夜は自分の家に帰って休むことができた。もちろん、ヘルパーなど公共の支援策はすべて使った。まだ、介護保険のない時である。

 この介護体制は1年間で終了した。母が亡くなってちょうど1年後に、父も亡くなったからだ。このときの体験は、私にさまざまなことを考えさせてくれた。私の両親は、どちらもそれなりに社会的な活動を活発に行っており、友人や運動の仲間、同志が大勢いた。だからこそ実現できた介護体制だったとは思う。

 しかし、人は誰でも、本来は自分が生きたいように生きる権利が晩年もある。母のお通夜でけいれんを起こし救急車で運ばれた病院のベッドで、父が「家にいたい」と言ったとき、「よっしゃ、わかった」と言えた私は、本当に人に恵まれていたと思う。

 介護保険ができ、家族介護ではなく施設や行政、地域で介護を担うという考え方は、どれだけ進んだのだろうか。結局、人は人とのつながりの中で生きていく。その人がどのような人間関係を作ってきたかが、本当に人のつながりが必要になったときにはっきりとわかる。私の両親は、そういう財産を残していったのだとつくづく思った。

(「しんぐるまざあず・ふぉーらむ・関西 NEWS  Vol.18」より転載)
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カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:家族 / 介護 / シングルマザー / 大森順子