エッセイ

views

2410

【特集・家族の多様性を考える その5】シェアハウジングから考える家族であることと家族でないこと   久保田裕之

2010.02.11 Thu

 高校卒業までの18年を両親と暮らしたあと、東京で7年間一人暮らしをて、その後、学生寮に2年、大学院進学のために関西でシェアハウジングを始めて5年が過ぎた。計算すると、来年で他人との共同生活の期間が、一人暮らしの期間を上回る。1人で暮らしていたときには、他人と住むなんてとんでもないと思っていたけれど、一人暮らしには馬鹿馬鹿しくてもう戻れない。家賃や光熱費もさることながら、日々のメンテナンス、買い出しの手間、食事の準備など、高いコストをたった1人で支払ってまで維持するほど、一人暮らしは楽しいものじゃない。一生こうやって、大勢でわいわい暮らしていけたらと思う。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.

 「結婚したらどうするのか」と聞かれることもある。間違って結婚することがあったとしても、配偶者や恋人とたった2人で生活する「愛の巣」は、甘美さよりも恐ろしさが上回る。どうしても配偶者や恋人と住まざるをえないならなおさら、1人の時間を大切にするためにも、2人の関係の風通しのためにも、もっと大勢の大人たちの中で生活する方がいい。 「子どもができたらどうするのか」と聞かれることもある。子どもができたら、それこそ2人でなんて育てるの超大変だし、他の人たちにも一緒に育ててもらえないものだろうか。自分が子どものころ大勢の大人の間で育ったせいか、母親と2人きり、あるいは両親と閉じこもるよりずっと楽しそうな気もする。

 実際、僕を6才まで育ててくれたのは、祖父母が始めた商店に住み込みで働いていた野仲さんという初老の男性だった。商店を引き継いだ両親が店を切り盛りするようになってから、はじめは何も仕事がないよりはと渋々預かった僕を、野仲さんは程なく24時間片時も側から離さず世話をするようになり、やがて少ない給料から玩具や絵本を、少し大きくなると漫画で読む教養書を買い与え、苦労して読んで聞かせてくれるようになった。僕は、血のつながりも学もない、今ではどこにいるのかも分からないおじさんから世界を教わった。だから、自分の子どもでなければケアするのは無理で、他人の子どもなんて育てたいと思うはずがないという意見を、僕は一切信じない。自分との関わりのなかで日々成長していくものをケアすることは、それ自体で何か価値を感じさせてくれるものだと信じている。

 それでもやはり、一緒に子育てをしてくれる人はなかなか見つからないかもしれないから、夫婦3組とか、4組とかで暮らすというのが妥当な線かもしれない。子どもが1人ずつでも4組で12人、2人ずつなら16人の大所帯だ。8人の大人が交代で子どもを見れば、負担はずっと軽くて済む。全員がフルタイムでもなんとか回るかもしれないし、逆に8人の収入を持ち寄れば、きちんとした賃金でケアワーカーを雇うことも可能かもしれない。あれ、これ良くないですか?なんでみんなやらないんだろう。

 「夫婦2人だけで子育ては無理」というのが子育て支援の大前提だけれど、そもそも夫婦2人だけで暮らそうとするのが困難のもとなんじゃないだろうか。そうまでして大切にするほど、夫婦2人きりのプライバシーを本当に満喫してるだろうか。それとも、自分たち夫婦はセックスしてなくても、妻や夫が同居人とセックスしちゃうかもしれない恐怖に耐えられないのだろうか。同居にせよ子育てにせよ、1人でないとすると夫婦・家族単位しか選択肢がないのはなぜだろう。

 ここで、他人同士が混ざり住むシェアハウジングもまた、「新しい家族」なのだ、「多様な家族」の姿なのだと主張することも不可能ではない。けれど、じゃあ僕らの共同生活が「家族」なのかと聞かれると返答に困ってしまう。今のところ、「家族」に一般に求められているように、子どものケアを引き受けているわけではないし、シェアメイトが病気になれば買い出しや食事の世話くらいするものの、仕事や学校を休んで付きっきりで看病するというわけにもいかない。生活するうえでいわゆる「家族」のような部分もあれば、全く違うところもあるからだ。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.

 そんなことを考えていたら、昨年の暮れにシェアメイトの女の子が結婚していた。相手は彼女の出身国の男の子で、帰省の折に結婚式を挙げて帰ってきたのだ。式が外国ということもあり、結婚することさえも月例のミーティングの終わりに、「そういえば・・・」といった形で切り出されただけだし、恥ずかしがって披露宴の写真も見せてくれないので、本当に結婚したのかどうか確かめたわけではないが、とにかく結婚したらしい。大学院生の彼女は学位をとるまで日本で生活するようで、しばらくの間は夫と離れて暮らすことになる(夫となった彼は、僕らのシェアに滞在していた数日間、何とも所在なさそうにしていた。「妻の(異性の)共同生活者」との関係にモデルがないからかもしれない)。さて、それでも僕らは「家族」といえるだろうか。

 考えてみればあたりまえのことだが、「家族」の外部にも生活があり、ケアがあり、親密さがあり、助け合いがある。「家族」の外部にも、充実した素晴らしい人生があるのだ。にもかかわらず、「多様な家族」というスローガンによって、「家族」に関わる要素が少しでも見いだせる場所なら何でも「家族」と呼ぶべきだというという発想は、このあたりまえの事実を覆い隠し、一見、多様なライフスタイルを称揚するように見えて、家族と「良きもの」との結びつきを強固なものにしてしまう。「ひとり家族」という概念的自殺に端的に見られるように、「多様な家族」という考え方自体、「良きもの」としての「家族」を無節操に押し広げることで、誰もが安全で安心できる親密な場をひとつ持つはずという信念を手つかずのままにおいてしまう。問題は、「良きもの」としての「家族」を主張しなければ、福祉や支援にアクセスできないこと、社会的に認められないことの方ではないか。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.

 たとえば、シェアハウジングは常に仲良くあらねばならないわけではない。生活を共同することと仲が良いことを結びつけてしまうのは、従来の家族中心の考え方だ。最も基本的なレベルでは、僕らは一つの家を共同で利用するというプロジェクトの共同経営者に過ぎない。

 こう書くと、まるでシェアメイトは誰でも構わないような印象を与えてしまうかもしれないが、実際は全く逆で、シェアを5年も続けていると、信頼できるシェアメイトは何者にも替えがたいと思う。本の趣味が合うとか、音楽の趣味が合うとか些末なことではなく、何か嫌なことがあったらきちんと伝えてくれるかとか、問題や食い違いがあれば一緒に真剣に考えてくれるかとか、そこは立ち入らないで欲しいという事柄にはさりげなくサインを出してくれるかとか、考えてみれば人として基本的なことが、一緒に住むとなると結構響いてくる。もしかすると、それは恋人選びや結婚相手選びに似ているかもしれないが、むしろ微妙な距離感にあれこれ指図する恋だの愛だのに邪魔されずに、共同生活者として自分に合った人を選べることが何より重要だ。「家族」でなくとも支え合えるのではなく「家族」でないから支え合えるという側面もある。

 だとすれば、あえて言うべきかもしれない。僕らは「家族」ではない。[b]それでもなお[/b]、充実した共同生活を送れるのだと。僕らは「家族」ではない。[b]だからこそ[/b]、助け合い話し合いながら生きていけるのだと。

くぼた・ひろゆき(大阪大学大学院)








カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:くらし・生活 / 家族 / 当事者研究 / 久保田裕之

ミニコミ図書館
寄付をする
女性ジャーナル
博士論文データベース
> WANサイトについて
WANについて
会員募集中
> 会員限定プレゼント
WAN基金
当サイトの対応ブラウザについて
年会費を払う
女性のアクションを動画にして配信しよう

アフェリエイトの窓

  • マチズモの人類史――家父長制から「新しい男性性」へ / 著者:イヴァン・ジャブロン...

  • 21世紀の結婚ビジネス: アメリカメディア文化と「妻業」 / 著者:スザンヌ レオナ...

  • 老後の家がありません-シングル女子は定年後どこに住む? (単行本) / 著者:元沢 ...

amazon
楽天