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アメリカ映画『扉をたたく人』 松本侑壬子
2010.02.13 Sat
<心開く太鼓のリズム>
私ごとながら、打楽器の中でも太鼓やドラムが好きである。音も好きだが、叩いている人の動きに惹かれる。手や腕はもちろん頭も肩も、膝、踵まで体全体がリズムに乗って音を創り出す、その動きが美しい。和太鼓だって、あの背中がセクシーだと思う。聞いている方も、自然に体がリズムに応え、気持ちが高揚してくる。
この映画は、2001年=“9・11”以来、ことのほかとげとげしくなったニューヨークのど真ん中で、それでも一筋の光を見る思いの人間ドラマ。そこで重要な役割を果たすのが“ジャンベ”と呼ばれるアフリカン・ドラムである。 主人公ウォルター(リチャード・ジェンキンス)はコネチカットにある大学の教綬、62歳。5年前に妻に先立たれてからは、誰にも心を閉ざし、孤独に生きてきた。講義は同じ内容の繰り返し。学生とも同僚とも極力関わりを避け、かつては著書もある有能な学者だったというのが嘘のような無気力ぶり。唯一続けてきたピアノもついに教師に匙を投げられてしまう。
同僚の代理で学会に出席するためにニューヨークに出張したウォルターは、久しぶりにマンハッタンの別宅であるアパートにやってくる。留守のはずの室内には花が飾られ、浴室には人の気配が…。ひと騒動の末、ここには中東シリアの青年タリクとセネガル人の恋人ゼイナブがいて、彼らは詐欺にあって無一文だと分かる。出ていっても実は行く当てのない二人を、ウォルターは再び家に招き入れる。
笑顔の明るい青年タリク(ハーズ・スレイマン)はジャンベ奏者で、興味を示すウォルターに懇切丁寧に手ほどきをしてくれた。誘われるままに一緒にセントラル・パークに行ってみると、さまざまなジャンベ奏者が集まってドラムの一大ページェント。いつしか、ウォルターも恥ずかしさを忘れて仲間に入り、夢中でジャンベを叩いていた。あの仏頂面のウォルターが、無邪気な笑顔で首を振り、全身で喜びを表している。音楽が人の心の境界を超えて気持ちを解放してゆく面白さ。アフロ・ビートを巧みに生かしたヤン・カチュマレクの音楽が素晴らしい。
悲劇は突然やってきた。帰り道の地下鉄の駅で、まったくの誤解による些細な出来事からタリクが警察に拘束されたのだ。あらゆる手を尽くしタリクの無罪を訴えようとするウォルター。だが、厳しい移民法の下でまるでテロリストであるかのような警察の扱いには、ウォルターの頼んだベテラン弁護士ですら手も足も出ない。ウォルターはゼイナブの手紙を面会ブースのガラス越しに見せたり、音楽が欲しいというタリクとガラスの両側でジャンベに見立てた机を叩いたりして、懸命に彼を励ます。
そんなある日、ウォルターの部屋を美しいアラブの中年女性が訪れる。タリクの母モーナ(ヒアム・アッバス)で、連絡の途絶えた息子を案じてシカゴからやって来たのだ。物静かで聡明で、優しいが挫けないモーナに接するうちに、ウォルターの心に正義感だけではないある思いが芽生える。絶望的な最後の知らせにも、行く手にまだほの明かりが見える気がするウォルターだった。
頑迷固陋な白人老人から少年の心を持つ知的で優しい恋する男へ―ウォルターの心の扉を開いたものは…。40年間脇役専門だったジェンキンスは、本作での初の主役で2009年のアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
[写真は、「扉をたたく人」の1場面]
(月刊「We learn」2009年7月号「シネマ女性学」より転載)