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【特集・家族の多様性を考える・その6】我が子意識を解体するってなかなか大変だったわ縲恆S日共同保育という試み ひまわり
2010.02.15 Mon
私はリブです。70年代当時、私は女友達数人と家賃や生活費を分担して、リブの事務所で共同生活をしていました。それって結構多かったんです、その頃。個人的なことは政治的なことだよねと、一人一人に染みついた女意識(今で言うジェンダー?)をけんかしながら日々検証し、そこから、家族ではない新しい生活のあり方を見いだそうとしたんです。
だって、帰るべき家庭(男の活動家にとっては、明日への癒しの場だったんだろうな)が抑圧の場であり、政治闘争の場であることを気付いちゃったんだから。でも家を出ちゃうと、賃金が低いもんだから女一人では生きていけない。そんなら、と、女同士で暮らすことで、貧乏でも生きていける仕組み、男に縛られない生活を作り出そうとしたわけです。
そんな中で妊娠、出産する女がでてきた。労働運動しようとして電話交換手になり、職業病になってしまった女もいた。昔も今も(違う?違えばいいな)、男性中心の労働組合は全くあてにならない。職業病を抱えながら子育てし、活動し、生活するためにはどうすればいいか。女同士の共同生活の中で子育てをしてしまうと、子育ては女がするもの、になっちゃうじゃないか。そうだ、共同保育しよう。それも、女も男も、親も親でないものもひっくるめた24時間共同保育=全日共同保育しよう! それが1975年ことでした。 子どもたちの生活の場は、メンバーの住まいだった団地の一室。参加するおとなたちは、24時間ローテーションを組んで、授乳、おしめ、掃除洗濯、調理、風呂(風呂なし2DKだったので銭湯です)など、分担してなんでもしました。
ちなみに、おとなも子どもも呼び方はみんな名前や愛称(だから今や30歳前後の私の子どもたち、今でも私のことを名前で呼びます)。いや、そんなに真剣に考えた訳じゃなくて、そりゃまあ家族のあり方を問題にしていたので、お母さん、お父さん的な呼び方はいややね、とは言うていたけど、早い話が、お母さん、お父さんがたくさんいると面倒だったからです。けど、たかが呼び方、されど呼び方。日々、名前を呼ぶことで、家族の役割ではなく個人である自分がどうするのか、どうしたいのかを、改めて考えることにはなりました。
維持費は、賃金の額に応じて分担。四六時中関わるおとなが違うというのも、子ども、しんどいんちゃう、ということで、昼間専従者を置きました。出入りが激しかったし記憶はあいまいだけど、おとなは総勢30数名、子どもは多いときで7名ぐらいだったように思います。
保育所もまだ不十分で(働く女は子育てする資格がない、とまで言われてたんだぞ)、夜間保育もなかったから、この共同保育がなかったら、子どもを産んだ女は活動なんかできなかったのは確かです。だけど、一番考えていたのは、子どもは家庭で両親が、特に母親が育てるもの、という意識に対する挑戦でした。
男の労働時間の方が女より長いから、家族だけの子育てだと子どもに接する時間は女の方が長くなって、結果、熟練する。未熟な男が手を出そうとしても、ああ、いらいらすると、つい女が担ってしまう。しかも男が「せっかく」「手伝おう」としているのにと、それは女のせいになっていた。全日共同保育では、熟練度は誰も同じ。男も積極的に子育てできました。また、育ち方様々な人間の集まりだったので、家事・育児にまつわる社会や家族個別のルールを問い直すことができました。
問い直しつつ最後までうじうじしたのが、親の子どもに対する「我が子意識」でした。専従の休日確保のために、土日は誰かが子どもを連れて帰ることになっていて、たいていは、親が自分の子どもを連れて帰りました。それでええんかと、交代で連れ帰ったりとか、いろいろやってもみました。だけど、現実問題、こんな社会でこの保育、いつまで保つやら。これが解散しても子どもは育つ。誰が育てる?親しかないやろ。「我が子」に執着しちゃうよなあというのは、今思えば、です。
ああ、しかし。当時のことを考えると私は今でも心がちくちく・・。なんとなれば、私は、ひとり者の時からこの共同保育に関わっていて、我が子意識に対する批判の急先鋒だったから。が!なんということでしょう。自分が妊娠、出産し、産休明けにその子を共同保育に入れた途端、自分の子どもが一番可愛いという気持ちになってしまったのである! わはは。
いや、笑いごっちゃなかったんですよ、私にしてみれば。その気持ちを「政治的に正しくないこと」だと思って(ああ、切ない)、相当無理して他の子と「平等に」接したんだから。思春期に、子どもたちはご多分に漏れず様々なことをしてくださったのですが、あのとき素直に愛情表現せえへんかったからやろかと、内心びくびくしておりました。ま、今は、そんなはずないと大きな顔をしてますが。
我が子意識は、我が子意識を植え付けることで、子育ての責任を親だけに担わそうとするシステムによって作られたものです。システムが変わらないのに、親の気持ちをどうこうっていうのはちょっと乱暴でしたが(なんせ自己批判大はやり時代だもんね)、可愛いと思う気持ちや愛情などの中にも政治的に作られたものがあると感じていたことは、なかなか正しいです。愛という名で、女に家事や育児をただ働きさせるのはおかしいという視点は、全日共同保育の中には確かにありました。
あ、そうだ。この共同保育には、シングルの男も数人いました。うちの一人、単に保育に関わり維持費を分担するだけでなく、自分の職場に育児休暇を申請しちゃったのだ。子育てはみんなで担うものだから、という理由で。もちろん、即却下、でありましたが。
いやもう、そんなこんな、いろいろやりました。若気の至り、頭でっかち、そりゃそうですけど、ただ、家族は抑圧、家族はあかんというのは、はっきりしていました。家族だけで子育てしてたら、女は働いて金稼ぐこともできないし、社会活動もできない。家族じゃない新しい子育ての関係を作ろうとした、切なくも必死な思い。う縲怩A今年還暦を迎えようとする私、その当時の私やメンバーの頭、よしよしとなでてあげたい。
そういえば今、ベーシックインカム(BI)がちょっと流行っているけど、女が担わされてきた家事・育児をみんなで担おうとしたことは、生きることに所得を保障するBIに繋がるんじゃないかなとも思います。その意味でも、先駆的かも。全日共同保育は、約3年間、家族ではない子育ての場を求めて闘い、主として経済的問題で解散しました。
関わった人の多くは、仕事や子育て、家族のあり方を、今も模索し続けています。私は、共同保育のメンバーとの間に非婚で子どもを2人産みました。子どもの父親とは、歩いて15分程度のところに住んでます。子どもが自分で選択できるようになるまで、子どもは、週のうち半分は私のところ、半分は彼のところ、という暮らしを続けました。不経済なことこの上なかったけど、「他人」として協働で子育てすることで、いらだちも甘えも少なくてすみ、今でもいい友人でいられるのがありがたいです。ただし「当たり前」でない暮らしは、たとえそれが当人達にとって最適であっても、日々は闘いの連続です。まあリブなんだからな。しかたないか。