2010.02.16 Tue
規範としての家族は、自然とともに語られてきた。英語で、it is natural といえば、「・・・は当然だ」を意味するように、あるいは、nature という言葉自体が、「本性」とも訳されるように、自然という語はそもそも、哲学的にはもっとも強い価値を帯びている。したがって、家族は、自然な集いと考えられてきたからこそ、そこに強い規制が働くともいえるが、逆に、強い規範や制度によって家族を拘束するためにこそ、家族は自然視されてきたともいえる。そして、多くのフェミニストたちは、異性愛中心主義の徹底や労働者の再生産、合理的経済人の論理の構築や愛国主義の育成など、社会化の機能を果たす装置としての家族制度を、後者の立場から批判してきた。
わたしは、西洋の哲学者がいかに家族を政治の領域から切り離し、自然視しようとしてきたかについて、それこそが、西洋政治思想史という学問体系が果たしてきた政治的効果なのだと、牟田和恵編 『』のなかで論じさせてもらった。
もはや、自然で正しい家族が存在すべきだと、ナイーブに論じられる時代ではない。ただ、それでもなお、いやだからこそ、というべきか、なにか家族的なるものが残り続けることは否定し得ないし、残り続けるべきだとさえ、わたし自身は感じている。
というのも、政治的に利用される家族規範を離れて、それこそナイーブな目で自分にとっての家族的なるものを省みれば、政治思想史において語られてきた、「一心同体」であるとか、「排他的な同質性」、もっといえば「以心伝心」といった家族像とは大きく異なり、家族こそが異人たちが集まる場所である、と思うからである。すなわち、家族と思うからこそ、私の日々の生活ではほとんど交わることも、出会うことすらないであろう人々と、それでもなお付き合おうとしていることに気づかされるのである。
たとえ壮大なフィクションにすぎないとはいえ、それでも、自由意志や選択の自由、自己責任能力がある市民が、たがいに平等な者として契約を交わしつつ成立すると考えられている市民社会とは異なり、家族はいかに、世代・性別・性的指向性・能力・性格、時に民族や国籍さえも異なる者たちが、偶然に集っていることか。
上述の『家族を超える社会学』には、釜野さおりさんの、レズビアン・ゲイ家族に関する論考も所収されている。そこでは、レズビアン・ゲイの人々が、血縁家族に対してカムアウトするさいに、大きな困難を抱えていることが指摘されている。かつて、ニュー・ヨークでみた、ボーイ・ジョージの半生に基づくミュージカル、Tabooを思い出す。80年代、カルチャー・クラブが活躍した頃のファンにとっては、カルチャー・クラブの懐かしい曲から、新たにボーイ・ジョージが書き下ろした曲まで、本当に楽しめたミュージカルだった。
ミュージカルの中で、ボーイ・ジョージ役の主人公が、自分はこの世界では異人であり、何度もそのことで躓いてきたこと、悲しく歌う場面がある。その曲のなかでジョージは、自分の生き難さを母だけは分かっていたんだと、訴える。僕が異人であることを、いつだってお母さんだけは知っていたんだよね、と何度も繰り返される歌詞を聞きながら、わたしは逆説的に、母だけには自分が本当に誰であるのかを伝えることができなかったジョージを想像せざるを得なかった。これは、わたしが家族について考えるうえで、忘れられない一曲である。
家族がそもそも、互いに理解しあうことが難しい、異人たちが集う場である、という認識から始めるとき、家族をめぐる議論や社会政策は、どのように変わるだろうか。家族には、もしかすると、わたしたちがあまりに自明視してきた近代的な主権国家を覆す可能性があるのではないだろうか、最近そのようなことを、考えている。
カテゴリー:ちょっとしたニュース