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韓国映画『牛の鈴音』(イ・チュンニョル監督) 松本侑壬子

2010.03.18 Thu

<牛をめぐる夫婦の愛情>

 夫婦と牛1頭を3年余り追いかけたドキュメンタリーである。現代の韓国では牛を耕作に使う人はほとんどいないが、老牛と30年以上一緒に働いてきた老人の頑なまでに変わらぬ牛との二人三脚の生活は感動的。だが、そんな夫に寄り添って生涯を過ごしてきたその妻の胸の内は―セピア色に懐かしい農村風景の中にも、牛をめぐる夫婦の微妙な愛情物語が詰まっている。 舞台となるボンファという農村地帯は、韓国人にとっては「守りたい自然が残っている場所」なのだという。そこに住むチェじいさんは79歳。家族同様の老牛は、平均寿命を大幅に超えた40歳。膝やわき腹には糞だか泥だかが苔むしたようにこびりついている。爺さんを乗せたタイヤ付きのリヤカーを引く足取りは、まるで能面役者のすり足のように優美でのろい。

 チェじいさんは田んぼにも畑にも、耕運機も田植え機も農薬も一切使わない。畦に破れた靴を揃えて脱いで素足で水田に入り、時には四つん這いになって田植えや草取りをする。左足が不自由なのだ。農薬を使わないのは、牛の健康に悪いから。そのため、毎朝遠くまで草刈りに行き、山のような安全な草の荷を曲がった背に担ぎ、杖にすがりながら戻る。便利な既製品の餌は買ったことがない。

 「こいつは老いぼれ牛だが、わしには人間より大切だ」が爺さんの口癖。そんな夫が妻のイさんは不満でならない。口をとがらせて「ふーっ」とため息をつきながら、文句たらたらだ。
 「もう老いぼれ牛なんて捨てて、機械を使ったらどうなの?」「農薬を撒かないから、牛にやる草を取りに行かなくちゃならないんだよ」「亭主が役立たずで私ばかりが働かされるんだ」…。

 爺さんはそんな悪態に馬耳東風だが、ときどきは重い口を開く。「(買った)飼料だと、牛が太って子を産まなくなる。分からんのか」

 夫の頭の中は牛のことばかり、と妻は嘆く。「あの牛は幸せだ。不幸なのはあたし。牛には毎日餌をやるのに、私は放ったらかし。死ぬまでこき使われるだけだ」と、まるで夫をめぐる三角関係の一方のような口ぶり。確かに、夫は妻には耳も貸さないが、老牛が鈴をカランと鳴らして低く「ム~」と鳴くだけで、すぐに立ち上がって傍に行く。「この牛は死ぬときも一緒だ。葬式をするときは、俺が喪主だ」「もし(牛が)先に死んだら、後追って死ぬよ」。これでは、妻としては、胸をぐさり!でしょう。

 じいさんの頭痛の診察に町の病院に行った帰りに、夫婦は写真屋で葬式用の記念写真を撮る。仏頂面のじいさんに、カメラの後ろから「笑え!」と叫ぶのは、妻の愛情である。

 「何の因果でこんな男に嫁いだのか。16歳で100㌔の道をやってきたのに」。イばあさんは、かすれたトランジスタ・ラジオに合わせて歌う。<時の流れは止められぬ。青春、私の青春、今どこに…>

 「牛を売ろう」とばあさん。「売らん」とじいさん。でも、頭痛が次第に強くなる夫は、やがて“その日”が来ることを知っている。そして、…。

 韓国で昨年空前のヒットとなったというこの映画。人の心を打ったのは、単に自然回帰や郷愁といったテーマだけではないだろう。老牛と農夫の“純愛”のその奥に、まるで道化か悪役のように描かれた妻の愛の哀しさと強さこそ、見る者に痛い問いを投げかけたのではなかろうか。

(”シネマ女性学”「We Learn」2010年2月号初出) 
[注]写真は「牛の鈴音」の1場面。
 (C)2008 STUDIO NURIMBO
 配給:スターサンズ、シグロ

タグ:くらし・生活 / 映画 / ドキュメンタリー / 韓流 / 松本侑壬子