エッセイ

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【特集:在日・女性を生きる④】 笑いの向こう  朴沙羅

2010.06.16 Wed

 大学院に入って、「何を研究なさっているんですか?」と尋ねられることが多くなった。そういう時は大体、「在日のお年寄りの話を聞いています」と答えることにしている。

 きっかけは簡単なことだった。私の父は在日朝鮮人で、彼の家族のほとんどは大阪に住んでいる。高校2年生の時、ある祭祀(法事)の夜に、伯母の一人が大声で話していた。
「あんな、昔、あっちに帰るときにな、船がひっくり返ってもう、みんなぐしゃぐしゃで大変やったんや」「そん時に、アボジ(お父さん)がものすご泣いてん。家族全滅やー、言うて」「ほんで、山口に着いてん。そしたら、浜辺に豆さんようけ積んであってん」
 こんな感じの、意味不明な発言だったと思う。それをもうちょっと知りたくて、大学に入ってから親戚の昔話を集め始めたところ、色々と面白いことが分かってきて、やめられないまま今に至っている。 私は父方の祖父母に会ったことがない。正確に言えば、祖父には一度会ったことがあったらしいが、彼は私が生まれてすぐに亡くなってしまったから、私にとっては会ったことがないのと同じだ。
 私の祖父母は二人とも、済州島という韓国の南にある火山島から大阪にやってきた。一度目は1939年に、おそらく仕事を求めて。2度目は1949年に、その島で起こった内戦(済州四・三事件 *1)から逃げて。祖父は日雇いで稼いだ金を博打と酒に換え、家に帰って来ては妻子に暴力をふるうという、ある意味で「在日一世」の男性の典型みたいな人だったようだ。祖母は大柄で力が強く(父の記憶によれば、50キロぐらいの蜂蜜の缶をリヤカーに乗せて行商していたらしい)、弁のたつ明るい人だったそうだ。
 父は10人兄弟の末っ子で、祖母から溺愛されて育った。一人だけ身体が弱く、一人だけ大学に行き、一人だけ地方公務員になって、一人だけ日本人と結婚した。

 そういうわけで、私は一応半分くらい在日朝鮮人なのだが、長い間、自分たちがなぜ日本にいるのか知らなかった。もちろん、植民地支配とか強制連行とか、そういうことを知らなかったわけではない。ただ、そういう歴史上の話は私にとって単なる「お話」に過ぎなかった。だから、自分たちのことがわかるのはそれだけで面白いことだった。

 一番上の伯父は、子供時代、サッカーボールの代わりに豚の膀胱を膨らませたもので遊んだ。
 二番目の伯母は弟の面倒をみるのが嫌で、まだ乳児だった弟を畑に埋めようとした(!)ところ、祖母に発見されて思い切り殴られた。
 三番目の伯父は、四・三事件のさなかに弟たちとよく釣りに出かけた。殺された島民の死体を海に捨てることが多かったから、そのせいで魚が多く集まり、よく釣れた。
 祖父母は1949年に日本に来る時、娘たちを全員、済州島に置いて行った。
 残された伯母のひとりは10歳のときに日本へ「密航」してきて、20歳で結婚するまで住み込みで働き続けた。月末には祖母が彼女を訪れて、その月の収入のほとんどを持って行った(うちの父親は、多分そうやって集められた金で高校に行ったのだと思う)。
 祖母は、60歳になったときに祖父と離婚し、ひとりで済州島に帰った。彼女は近所の人たちと踊っている最中に心筋梗塞で死んだ。
 こういうことを私は何も知らなかった。

 調べていくうちに、親戚の昔話を集めるだけでなく、他のお年寄りたちの話も聞きたいと思うようになった。去年から、大阪市内にある在日の人たちのデイサービスセンターで聞き取りをしている。なぜかそういうところに来るのは大半が女性だ。
 「どうして日本に来たんですか?」「私、密航」「私、君代丸(クンデファン) *2」「旦那さんが日本に行くて言うたから」「お父ちゃんがこっちにおったし」「…えーと、おひとりずつ伺っていいですか?」

 こういうやりとりを月に2回くらい、ここ半年ほど続けてきた。お茶を頂いたり、花札に参加させてもらったり、時々日本語の識字学習のお手伝いをさせてもらったりして、お年寄りに可愛がっていただいている。花札はどこで習ったんですか?と尋ねると、デイサービスで知ったと言う人たちに交じって、「密航」の罪で強制送還される時に収容所で習ったという人もいる。その収容所は大村収容所と言って、「東洋のアウシュヴィッツ」という恐ろしい渾名がついている。どんなところでしたか?と尋ねると、大体返ってくるのはこういう答え。
「そらええとこや。働かんでもご飯食べられるし」

 50年代に済州島から「密航」してきた女性(仮にOさんとする)がいる。彼女はある日、近所の喫茶店で、女性客が「冷コ(アイスコーヒー)ちょうだい」と言っているのを聞いた。
 次の日、彼女は同じ喫茶店に行き、自信満々に「ネコちょうだい」と注文した(当時Oさんは日本語が話せなかった)。店員は困惑したが、Oさんが繰り返し「ネコちょうだい!」と主張したところ、最後にはちゃんとアイスコーヒーが出てきた。「せやから私、最近までずっとネコと冷コは同しものやと思てた」。そう言ってOさんは笑う。私も笑う。

 聞いた言葉がどういう状況に裏付けられていたかを調べ、また話を聞きに行く。大体の場合、どんな経験も漫談のように語られる。実際笑える話が多いし、私も家や大学で話のタネにすることも多い。ただ、笑ってしまっていいのかどうか分からない時もある。そういう漫談はきっと、私には想像もつかないような経験から生まれている。その経験を生んだものを調べるのが楽しくて、私はまだこの世界から足を洗えずにいる。

(ぱく・さら 京都大学大学院・社会学専修)

注1) 1948年4月3日から1954年まで済州島で続いた武力衝突。南北朝鮮の対立を背景に、米軍や後の韓国政府が関与して派遣された右翼青年団や警察の横暴を大きなきっかけの一つとして起こった島民の武装蜂起であり、その鎮圧過程でおよそ2万5000人から3万人の島民が殺害されたと推定されている(ちなみに1946年当時の島の人口は22万人程度)。

注2)1922年に開設された、大阪と済州島各地を結ぶ直行航路。尼崎汽船会社運行。

カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:韓国 / 朴沙羅