2010.06.23 Wed
<男くさい映画の楽しみ方>
あくまでも、私の場合ですが、男の魅力は、まず声である。声がいいと、カンが狂ってしまう。うっかり騙されてしまうかもしれない。ともあれ、点が甘くなるのだ。歌手がモテるのは道理かも。
カントリー&ウェスタンは、いかにもアメリカンな男っぽい音楽だが、私は嫌じゃない。昔ちょっといい関係だった人から贈られたウィリー・ネルソンのテープがきっかけで、ときどき夜なべの仕事の合間にCDを流している。この作品(スコット・クーパー監督)はフィクションだが、ネルソンの公演ライブの収録版を聞いていると、つい映画の主人公とイメージがだぶってしまう。落ち目の歌手の再生の話とは、ネルソンにちょっと悪いかもしれないけれど。 真っ青な空の下、果てしなく続くコロラドのハイウェイを走って来た埃だらけの車から降り立つ男。カウボーイハットにジーンズ、ブーツ姿で、車の代わりに馬なら、そのまま西部劇の始まりといったところ。かっこいい! と言いたいところだが、実はかつて一世を風靡した“伝説のシンガーソング・ライター”、バッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジス)のたった一人のドサ回りの姿である。人気の頂点から酒と女に溺れ、ずるずるとずり落ちて、57歳の今も新曲を書けないスランプ状態から抜け出せない。男っぽさで売る舞台は、さびれたボーリング場のステージ。お気に入りのウィスキー“マクルーア”を手放せず、歌の合間に二日酔いで舞台裏に駆け込むという散々の出来だ。楽屋で強がりを言っているが、内心には孤独と不安と自暴自棄が渦巻いている。
こんなバッドの心にふと灯が点る。サンタフェで珍しく取材に来た地元紙の若い女性記者ジーン(マギー・ギレンホール)と思いがけない成り行きで一夜を共に過ごし、翌日、4歳の息子と暮らすジーンの自宅に押し掛ける。凛としたシングルマザーのジーンは、バッドの無骨な温かさに包まれて安らぎ、幼い息子も大喜びでバッドになつく。穏やかな日常生活の中の家族の味を初めて知るバッド。
バッドの次の舞台は、再起をかけたフェニックスの巨大スタジアムだ。だが、そこではかつての自分の弟子で、いまや若きトップシンガー、トミー(コリン・ファレル)の前座で歌わねばならない。屈辱を振り切り熱唱するバッドにトミーが飛び入りして、舞台は大成功。恩を忘れぬトミーの依頼でバッドは自ら“最高傑作”と自負する新曲を作って贈る。成功の喜びからバッドは新生活に再出発の希望を託し、自分の住むヒューストンにジーンと息子を招く。だが有頂天のバッドの気の緩みが、思わぬ大事を引き起こし…。
全編に流れるカントリー&ウェスタンに乗って、バッドの蛇行する旅を追っていると、あ~“男っぽい男”って、支えがいるのね、と。父と娘ほども年齢差があるが、ジーンがいかに頼もしく雄々しく、バッドを支え励ましていることか。しかも、セクシーなバッドとの情熱に溺れず、幼い息子への愛を守り、その求愛は悩みながらもきっぱりとお断りする…と。こんなヒロイン、これまでの男性映画にいただろうか。
思えば、「シェーン、カムバック!」の(母)子の呼び声を背に馬で去ってゆくカウボーイに男の理想像を見せたのは1950年代だった。え、私たちまだ生れてない? そうねえ。シェーンも遠くなりにけり、か…。”馬を下りた現代のカウボーイ”バッドとして、男の弱みも孤独もかわい気も、率直なリアリティあふれる演技で、ブリッジスは今年の(第82回)米アカデミー賞主演男優賞を受賞した。
[注]写真は「クレイジー・ハート」の1場面
(C)2009 Twenty Century Fox
カテゴリー:新作映画評・エッセイ