2010.06.27 Sun
6月19日(土)、大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)にて日本女性学会大会シンポジウムが開催されました。テーマは、「社会を動かす女性学」。話題提供としてのシンポジストは、赤羽佳世子さん、江原由美子さん、内藤和美さん、荒木菜穂が担当させていただきました。
まず最初に江原さんのお話では、ウーマン・リブから続く日本の女性学、フェミニズムの歴史や発展、またそれらへの反動が起こっていることについて、政治経済、国際情勢などその外部の動きと関連づけた様々な立体的な議論が展開されました。ここでの社会変動は、その時代のジェンダーのあり方をも規定しており、女性学がその解決の対象としてきたジェンダーの問題もまた不変ではないことを改めて確認できる貴重な機会でもありました。
続いての荒木は、女性学やフェミニズムの現実の蓄積とは乖離した「イメージされるフェミニズム」から、権威としてイメージされるフェミニズムが嫌われる際に生じる「普通の女」という新たなカテゴリー化、そこにある代弁の問題について、またその批判・打開策として女性学活動における言説から学ぶコミュニケーションの方法論の提案などを述べさせていただきました。
次に赤羽さんのお話では、ご自身の当事者運動での活動経験を通じ感じられた女性学の魅力と疑問点について述べられました。女性の権利を求めるフェミニズムは、結局は女性である自分自身の権利のみを考え、他の女性を含む他者の生き方を軽視するという「自己中オンナ」を大量生産しただけではないのか?という指摘が印象的でした。また、女性学の今後のあり方として、「当事者」を研究材料として利用するだけの「学問」ではなく、わかりやすい言葉で社会的な発言力をつけ、研究の成果を社会に還元することが期待されるということも述べられました。
最後に内藤さんのお話では、まず、日本における高等教育としての女性学やジェンダー・スタディーズの状況の概要が述べられました。そして、女性学やジェンダー・スタディーズの実績とともに、例えば科目名が「女性学」であっても「ジェンダー論」であっても内容は性別分業を中心とした似通ったものであることなど、実践的な知識や活動への発展を阻害する問題点が、国立女性教育会館「女性学・ジェンダー論関連科目データベース」(2000-2008)他、さまざまな調査や豊富な資料とともに展開されました。また、女性関連施設における実践的な業務と女性学との乖離、またそのような労働が適切に評価されていない実態についても述べられ、男女共同参画の実態の深刻さもまたあらためて実感できるご報告でした。
本シンポでの議論は、赤羽さんのお話にあったような、女性学は実践的活動とも連携して、社会を変えるための理論の構築を目指すべき、ということに尽きるのではないかと思います。私自身の反省点としましては、やはり少し現実の深刻な状況を漠然としか捉えられていなかったことなど多々あるのですが、シンポジスト4名による話題提供は、社会、女性学、そこに生きる人々がどのように関係するのか、していくのかという点でつながっていたのかなと思います。本シンポでの議論にあったような、まずは生きていける状況の確保のため、人々、特に女性の労働が正当に評価されない状況の打開に向けて動くことは、今日の社会状況において重要な意味を持つと感じました。
続く質疑では、活動や女性関連施設の現場からの声が多数寄せられました。また、ある参加者からは、「家族を大切にする」というバックラッシュの考え方を知ったことにより、ジェンダー/セクシュアリティ的に「正しい」とされる行動を避けることができ、家族との関係が良好になった、というご自身のエピソードが挙げられました。
議論の中で出されたように、「家族を大切にする」ということは決して保守的言説にのみあてはまることではない、ということを、女性学やフェミニズムもまた主張していくことは本当に重要なことであると感じます。しかし同時に、女性学が伝えてきた「正しいこと」が、(とりあえずは現時点での社会状況下において)ジェンダー構造に巻き込まれている人々同士の関係を必ずしも良好にしない、ということもまた多少なりとも私も感じることがあります。そこでは、今が過渡期であるということと同時に、なぜジェンダー構造が存続しているのか、すなわち、どういう立場でそれぞれの個人がジェンダー構造を生きているのかについてあらためて考える必要性が示されているのではないでしょうか。
上記のような問題を考えていくためには、やはり、立場の違う他者との、考えようによっては煩雑で面倒くさいコミュニケーションが必須となります。なので、その意味で、会場のやりとりも、もっとカオス的にウネウネ盛り上がったらよかったのになと少し物足りない気もしたのですが…。
それは、個人的な意見ではありますが、女性学やフェミニズムにアクセスしたくてもできなかった人たち、アクセスの仕方もわからない人たちのことを、もう少し議論できてもよかったのでは、ということでもあります。会場からのご意見にもあったように、本シンポジウムでは、質疑の時間も含め、異性愛制度以上のことが議論されていない、クィアの理論や活動の軽視されている感は全体として否めなかったです。同時に、仮に異性愛者中心の議論である前提を認めたとしても、やはりそこに登場する「女性」のすそ野は広くはなかったとも言えるのではないでしょうか。
シンポでも述べさせていただきましたが、「一般の女性」(うーん、表現が難しい)によるフェミニズム嫌いやフェミニズムばなれの問題性は、かつて女性学やフェミニズムの課題として指摘されてきましたが、きっとその問題は終ってないと思います。もちろん女性に限ったことではないですが(女性に限る意義もまたあると私は思いますが)、このような問題は、質疑の話題でも出ていた、女性関連施設がどのように地域のニーズを取り入れるかということにもつながってくると思います。さらには、女性学を教え伝え合う場、活動の場、普通の対話(それがフェミ的なものであってもなくても)の場などをつなげていくことも必要になってくるのじゃないかなと思います。
とはいえ、このシンポだけで何もかも結論が出る類の議論ではなかったと思います。いい意味で今回の会に触発され、こんな大きな会は無理だけど、いつかまた、こんな感じで、いろんな立場のジェンダーやセクシュアリティに関するお話ができる場を小さくてもいいから作ってみたいなぁと密やかな願望を持たせていただいたりもしました。
最後に一点、様々な立場から、という意味で。当日も少しこぼしたことなのですが、若い世代から、って言われるのはあんまり私は好きじゃないです。それは、当然のことながら「若手扱いしないで」なんてことでは全くなく(それどころか「若手」にさえまだなれてない気もする)、まず、年齢で人をジャンル化するのって、どうしてもカテゴリー的というかヒエラルキー的なものを感じてしまうというか。また、女性が長い間年齢でその価値を判断されてきた事実も考えると、実際どうかは別として、世代を前提にしてしまうということが女性学的魂にフィットしないような気がするのです。「経験の期間が短い」、「経験してきたことの異なる一人」、ということならしっくりくるかなとも思うのですが、「若い世代を理解して!」「若い世代の声も聞かないと」というやりとりなど、どこか気持ち悪く感じてしまうのですが、かといって常に適当な表現も見当たらないし、難しいところです。
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