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映画評:『アイガー北壁』   上野千鶴子

2010.07.03 Sat

・・・国威を賭けた登山競争。リアリズム映像の衝撃に、息を
のむ。

監督・脚本:フィリップ・シュテルツェル
出演:ベンノ・フュルマン、ヨハンナ・ヴォカレク、フロリアン・ルーカス、ジーモン・シュバルツ、ゲオルク・フリードリヒ
配給:ティ・ジョイ

 アイガー北壁。標高3975メートル、壁の落差1800メートル。目もくらむような切り立った絶壁だ。天候が急変しやすく、岩がもろくて落石が多く、雪崩も起きやすい。一日中陽の射さない暗くて冷たい悪魔の壁。他にも稜線越えなど登頂ルートはあるのに、登山家たちはこの難所に挑む。

 1935年からの挑戦で死者は15名に達する。日本では高田光政(’65年)、加藤滝男、今井通子ら(’69年)が登頂し、次いで森田勝、羽島祐治ら(’70年)、長谷川恒男(’77年)が冬季登頂に成功している。夏でも凍死する危険のある北壁に、冬季に挑戦するなんて、ほとんど狂気の沙汰だ。どんな命知らずだろうか。日本では谷川岳が難所で有名。2005年までに死者は781名に達している。

 1936年、ナチス政権下のドイツ。国威を賭けた初登頂競争にふたりの若者が挑む。アンディ・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ。ふたりとも23歳だった。これに特ダネを狙うベルリンのジャーナリストと報道写真家志望の若い娘がからむ。直下にある4ツ星豪華ホテルには、命がけのショウを楽しみに滞在する物見遊山の客たちがいる。テラスの望遠鏡からは、壁にとりついたクライマーが手に取るようにみえる。映画は壁の上の死闘と、眼下のホテルでの安逸とを交互に見せる。 映画は70年前に実際に起きた北壁登攀(とうはん)史上最大の悲劇といわれる事件を題材にしている。だからこそ、それを支えるのは実写かと思えるほどの映像のリアリズムだ。監督のフィリップ・シュテルツェルと撮影のコーリャ・ブラントは「カメラも一緒に登っているように見える映像を撮りたかった」と言うが、クライマーが見ても納得できる映像に仕上がっている。「死力を尽くす」とはこのことか、と追体験できる。

 この写真家志望の娘ルイーゼが、ふたりの登山家の幼なじみだった、という趣向がからむ。演じるヨハンナ・ヴォカレクは、垢抜けない田舎娘を演じたかと思えば、後年、肖像写真家として自立してからの影のある成熟した中年女にみごとに変身してみせる。短いシーンだが、見ものだ。ドイツにはハンナ・シグラのように、田舎娘と一皮むけた熟女を演じ分けるのがうまい女優がいる。

 時はナチの威信をかけたベルリン五輪の直前。この記録映画に女性監督のレニ・リーフェンシュタールが起用されたことは有名だ。スポーツに政治がからむとろくなことはない。みなさん、五輪にも、日本の国威発揚なんて、求めないでいたい。栄光は個人のものだから。

(初出 クロワッサンPremium 2010年5月号)

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:映画 / 上野千鶴子