2010.09.20 Mon
もう20年も前、天安門事件の余波が残る、北京への留学先を変え、娘は蘇州大学に1年、学んだ。春秋戦国の呉の時代からの古都、白い壁と黒い瓦の家並みを運河が縦横に走る静かな町・蘇州。
思い立って蘇州を訪ねてみた。北京~上海まで足を伸ばして。蘇州駅からバスで15分、えんじゅの樹がアーチをつくる並木道を通り抜け、外運河近くに蘇州大学はあった。外事弁公司の隣の寄宿舎に泊めてもらう。翌朝、朝もやの木々の陰に、ゆっくりとシルエットが動くのが見える。構内で、お年寄りが太極拳をしているらしい。蘇州の夜は、やわらかいランタンの灯が消えると、あたりは真っ暗。夜道を歩いて、安くて、おいしい、近くの食堂で夕食をとる。女店員に「お手洗いはどこ?」と聞くと「私も、行くわ」と、つれていってくれたのは、道端の公衆便所。暗かったとはいえ、何の囲いもないトイレで、二人で並んで用を足した。
運河沿いの家から、女たちが、川沿いの石段をトントンと降りてくる。食器洗いや洗濯、はては、スツールのような便器までも洗いながら、おしゃべりに余念がない。のんびりと、絵になる風景だった。
北京空港着。空は青く、突き抜けるような秋天。キーンと冷たい空気に「風邪を引きこんだかな?」と思ったら熱が出てきた。宿は東単近くの安ホテル。玄関先で、チャイナ服の老人が、揶揄するように、鋭いまなざしで「リーベンレン(日本人)」と、ボソッとつぶやいて通りすぎていった。部屋の机に赤い消火器のような魔法瓶が1本。古いテレビが、中国語の吹き替えで「コーラスライン」を流していた。よく写らない画面を見ながら、お湯をどんどん飲んでは水分を出し、やっと熱を下げた。
翌日、私が生まれた「らしい」ところを探しにいく。母に描いてもらった戦前の北京の地図を手掛かりに。中薗英助の『北京飯店旧館にて』ほど、ロマンチックではないけれど、胡同(フートン)に明るい陽がさす庭の一角に古い民家が残っていた。もしかしたら、このあたりかもしれない。道ゆく人に住所を尋ねても、「プーチィダオ(知らない)」とそっけない。諦めて天安門から、ガランとした故宮博物館を抜け、景山公園あたりへ。焼き芋売りのおじさんが向こうからやってきた。黄色い焼き芋は、ホクホクと、おいしかった。
北京から上海へ向かう小型飛行機が、急に高度を下げた。民家も何もない、殺風景な飛行場に臨時着陸。30分ほどたち、すっと飛び立った。その間、乗務員の説明はなく、乗客も「いつものことだ」とばかりに、すずしい顔。どうやらそこは北京の西方にある軍用飛行場だったらしい。なにごとも中国は、大人(たいじん)の国だなと思った。
あれから17年、蘇州を再訪した。もう、びっくりするくらい変っていた。上海から蘇州へ、いつ出るとも、いつ止まるともわからない列車で行ったのは昔のこと。今や高速道路で1時間半。沿道はスモッグに覆われ、晴れているのに日差しは見えない。蘇州駅前も大再開発中。新市街区は外国企業が進出し、上海に負けないくらい、まるで宇宙都市のような高層ビルが建ち並んでいた。北京オリンピックと上海万博を成功させ、これからの中国は、どこまで邁進していくのだろうか。
「おいしいお料理をいっぱい食べたな」と中国に行くたびに、いつも、思う。台湾を旅した時も、そうだった。台湾の北部・北埔で、香檳烏龍茶を栽培する客家の集落を訪れ、竹で囲った作業所で、いただいた家庭料理の味は、今も忘れられない。
料理に、ダシを使うのは日本料理と中国料理だけらしい。昆布や鰹ダシを使うのは日本料理、中国は海産物や乾物が中心。西洋料理にダシは使わない。世界がグローバル化するなか、ずっとずっと昔から、世界をグローバルに席巻してきたのは、もしかしたら中国の「味」の力だったのかもしれないと、おいしい中国料理を食べるたびに、そう思う。
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