エッセイ

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ケアすることが公正なとき、正義はケアをしている  岡野八代 特集「ケア・労働・正義」②

2010.10.11 Mon

エヴァ・キテイさん、来日によせて

                                岡野八代

「一個の人格であるbeing a personとは、つぎのような能力を持っていることを意味している。すなわち、他者とある特定の関係性の中に在り、他者と接触し続け、自分自身の世界と他者からなる世界を形作り、そして、他の者が自分たちにも開かれた可能性として受け止めることのできるような一つの生を送っている、という能力である。こうした考え方は、人格性に関するあらゆる考え方の中心に、他者との(現実のであれ、想像上のであれ)関係性を持ってくる定義の一つなのだ」[Kittay “When Caring is Just and Justice is Caring” in ed. by E.Kittay and E.Feder, The Subject of Care: Feminist Perspective on Dependency, (Rowman & Littlefield, 2002), p.266]。

KittayDoshisha わたしがキテイさんの著作に関心をもちはじめたのは、上に引用したキテイさんの文章に出会ったときです。「ケアすることが公正なとき、正義はケアをしている」という魅力的なタイトルが付けられたこの論文には、キテイさんの娘で、重度の知的障碍をもって生まれたセーシャが家にいて、家族とケア・ギバーたちが彼女の世話をすることから見えてきた人間像と、わたしたちの社会には何が必要なのかが論じられていました。

セーシャは、成長するにつれ、彼女が生まれ落ちた合衆国という社会が期待するような市民となることはおろか、むしろ、衣食住ほか、彼女が生き延びるために必要なものをすべて他者に依存しなければなりません。1969年生まれのセーシャは、わたしとほぼ同じ世代を生きてきましたが、わたしが年齢を重ねるにつれて、一人で出来ることが多くなったのとは「逆に」、成長するにつれて彼女は多くの必要を、より多くの人の手や時間を借りて充たさなければならないのです。

日本と同じように、低福祉の合衆国では、セーシャのような子どもたちが十分に家族の愛情を受けながら、アットホームにいられることは、ある種の特権ですらあります。セーシャをケアするキテイ家に十分な資力がなければ、セーシャを見守り慈しむ家族とともに暮らすことは困難でした。キテイさんは、そうした「特権」に自ら預かっていることの幸運を十分に認めつつも、しかし一方で、なぜそれが「幸運」であり「特権」であって、当然誰でもが享受できる「権利」ではないのかについて、研究されてきたフェミニスト哲学者です。

ここである皮肉を感じる方もいらっしゃるかもしれません。なぜならば、多くの人にとって哲学のイメージは、「ただ生きるだけでなく、善く生きること」とは何かを問い、だからこそ、人間の本性は、理性や知性に宿っていると議論してきた学問だからです。さらに言えば、キテイさんはセーシャが10歳の誕生日を迎えようとする1978年に『メタファーが認識に与える力』という博士論文を執筆しています。キテイさんは、セーシャを育てながら、認識能力と人間の本性との関係についてずっと思索を膨らまし続け、ようやく、セーシャが生きるために必要な人やモノを「権利」として受け取ることが当たり前でない理由を、理性や知性に人間の本性を求める哲学、そして、理性や知性を備え、一人で生計を立てることのできること、つまり自律的な(立派で一人前の)市民であることを求める社会に突き止めました。わたしのフェミニスト哲学のイメージは、自律的個人を理想像とする哲学を批判することなのですが、このイメージは、キテイさんの議論から多くの影響を受けました。

2000年に発表された “At Home with My Daughter”という論文は [American with Disabilities eds. by L.P. Francis and A. Silvers (Routledge) に所収]、タイトルに様々な含意が込められているように思います。重度の知的障碍を抱える娘と「家に共にいること」、それが娘のことを「より深く知り」、娘と同じ時を過ごし、「くつろぎ」、それが喜びとなることが描かれていました。もちろん、キテイさんは多くの悲しみや苦しみにも出会うことになります。しかしながら、たとえば、食事をとろうとするセーシャをキテイさんが抱擁し、喜ぶセーシャがジャムパンを落とし、ジャムまみれの手でキテイさんに応え、あたかもダンスするように、二人が触れ合うことがもたらしてくれる生きることの意味が、逆に、苦しみや悲しみを疑問に思う視点をキテイさんに与えたと語られています。つまり、生の喜びは確かに、キテイさんに応えるセーシャの笑顔や振る舞い、キテイ母娘の関係性から生まれてくるのですが、苦しみや悲しみのほうは、むしろ二人を取り囲む社会から押し寄せてくるのです。

こうした経験が、冒頭の「人格とは何か」という哲学的な問いと、社会の根拠を依存される・する関係性に求めようとするその後のキテイさんの著作へとつながっていきました。確かにセーシャは年齢を重ねるにつれて、多くの人の手と時間を必要とします。そのことを先ほどわたしは、わたしの経験とは「逆に」、セーシャは多くを必要とするようになる、と表現しました。しかしながら、キテイさんの議論では、セーシャの経験は「逆に」、わたしたちの社会に欠けているものは何かを、彼女の成長に合わせて訴えているのです。

今回の来日は、キテイさんにとって初めての来日です。合衆国に学び自己責任論が横行し、規制緩和の名の下で福祉を削減し続けてきた日本社会について、そして、つながりを中心とした社会正義のグローバルな可能性について、ゆっくりと議論できる機会がもてることを心待ちにしています。

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エヴァ・フェダー・キテイさんの講演日程

11月10日(水)18:30~ 講演会「ケアの倫理からグローバルな正義へ」
同志社大学今出川キャンパス 明徳館 M1番教室

11月12日(金)16:00~18:30 (時間が変更になっていますのでご注意)  「エヴァ・キテイ『愛の労働』をめぐって」ラウンドテーブル

東京大学教育学部第一会議室、東大赤門そば 詳しくは

http://www.p.u-tokyo.ac.jp/cbfe/0300/2010/1112_roundtable.html

11月13日(土)18時~  講演会「ケアの倫理からグローバルな正義へ」
お茶の水女子大学 大学院棟会議室

カテゴリー:ケア・労働・正義 / シリーズ

タグ:ケア / 労働 / 岡野八代 / 正義

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