エッセイ

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おひとりさまの在宅ひとり死は可能か? 甘利てる代 特集「ケア・労働・正義」③

2010.10.17 Sun

在宅ホスピス協会全国大会での議論から見えたもの

 おひとりさまが増えている

  「日本在宅ホスピス協会全国大会in岐阜」(岐阜県、日本在宅ホスピス協会主催)が10月8~10日に岐阜県長良で開催された。10日には「在宅ホスピスケアで朗らかに生きよう~おひとりさまでも安心?~」と題した公開シンポジウムが開催され、約600人の市民が参加した。パネリストは上野千鶴子氏(東京大学大学院教授)、濱口道成氏(名古屋大学総長)、柳田邦男氏(作家・評論家)。大会会長の小笠原文雄医師と渡邊正医師が進行役をつとめた。

 実は公開シンポジウムが始まる30分以上前から、会場前には長蛇の列があり、筆者もその列に並んだ一人だった。開場を待つほとんどが女性であり、お目当ては上野千鶴子氏。今や「おひとりさま」の代名詞となったこの人なのだ。

 登壇した上野氏は「おひとりさまの本が売れました。男おひとりさま道の本もぼちぼち売れました」と笑いを誘い、一気に会場の集中力を高めた。さすがだ。

 上野氏によれば、おひとりさまはますます増えていて、その原因は死別・離別・非婚であるという。死別は超高齢者と後期高齢者の男女で、今後増えるのは離別・非婚。特に離別男性は孤立する傾向があると指摘した。40代以下では男女とも生涯非婚者が増加すると予測され、40代で4人に1人、30代で3人に1人という数字が示され、会場がざわついた。次に上野氏は有配偶率を示して「男性の有配偶率のピークは60代後半。つまり男性にとって結婚が一生ものではなくなったということだ」と説明した。

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 おひとりさまの老後はどうなっているか。上野氏は「単身男性高齢者の問題は孤立であるが、女性の場合ではむしろ貧困だ。また、子がいたとしても少子化・子世代の高齢化・家族の脆弱化などの理由でセーフティーネットはない状態だ。家族もまた一生ものではないということだ。老後こそ家族・親族に変る代替ネットワークが必要だ」と話した。

終のすみかは、施設?在宅?

 講演は、いよいよ本題に突入する。それでは家族・親族に変わって老後を支えるのは「施設」なのか「在宅」なのか。シンポジウムテーマのように「在宅」で死ねるのか。

 「可能だ」。これが上野氏の結論である。

 上野氏は特別養護老人ホーム(以下、特養)などの施設をズバリ、「負の遺産になる」と明言した。施設不足という理由で、今、建物を続々建てたとしても、将来的にはつぶすに潰せないただのコンクリートの塊に成り果てる。なぜなら、高齢者数がピークを迎えた後は、わが国の人口そのものが減って、高齢者層を支える世代が激減することが推測されるからだ。介護保険制度は、そもそも施設介護から在宅への転換をはかったものであったはずだ。それがいつの間にか逆行し始めている。

 なぜ人びとが特養に集中するか。施設志向は「家族ニーズだ」(上野氏)というように、本来は自己決定による施設入所が、そうではないということだ。施設入居の意思決定は家族であり、本人は家族に厄介をかけたくないという思いで入居する。家族の介護力が落ちていることは当然として、在宅で介護することよりも施設に預けたほうが「お得」(介護保険の利用料負担などを含めて)感があることは否めない。

 筆者は東京都で、福祉サービスを評価する第三者評価活動を行っている。特養入居者に直接会って話を聞く機会があり、これまでに少なくとも700~800人ほどの入居者に接してきた。その中で「ここに入りたかったの。とっても楽しいわ」と話してくれたのは、たった一人だけだったことを思い出した。90~100歳前後の超高齢者は「ここで死にたい。ここしか居る場所がないから」ということが多いのも事実である。他は「どうやったら家に帰れますか。教えてください」「家族がここを決めて、病院から直接来ました」「帰りたいから息子に電話したいけれど、施設の職員さんも電話番号を教えてくれない」などと訴えられることも珍しくない。施設は生活の場だというが、その人らしい暮らしはなかなか存在しないのが現状だ。

 人びとが施設に殺到するのは、「施設」か「在宅」の二者択一の選択肢しかなかったからだ。「最近は中間の施設となる、高齢者専用賃貸住宅(高専賃)や適合高専賃、有料老人ホームなどができて選択肢は拡大した」と上野氏。それでも最期をどこで迎えるかは迷うところだ。医療との連携が不可欠だからだ。

在宅ターミナルケアは可能だ

 いよいよ核心に迫ってきた。その前に、なぜ筆者がはるばる岐阜まで行ったのか話したい。それは一つの「孤独死」の発見者になったことと関係がある。傾聴ボランティアとして3年間ほど通った93歳の女性は、一人暮らしのうえに歩行困難、認知症があった。施設入所はもとより介護サービスの利用を頑なに拒否していた。「わたしゃ、ここで死ぬんだ」が口癖だった。老朽化した一戸建てにすんでいたが、暮らしは困窮していたから、お金がかかるサービス利用など頭になかったのかもしれない。娘が同じ市内にいたが、疎遠であった。老女はある日、脳梗塞を起こしてトイレの前で倒れた。そして、そのまま息絶え、死後2日後に筆者が偶然見つけた。

死後硬直した老女のからだは、想像以上に痩せ細っていた。筆者は、死因は脳梗塞であるが餓死に近かったと確信している。買物に行けない老女のもとには、筆者が訪れるまで少なくとも2週間以上、誰も何も持ちこんでいないのだ。息絶えるその瞬間、老女は飢えていなかったのか、孤独ではなかったか。そう思うと正直、在宅の限界を感じていたからだ。どのようなサポート体制があれば孤独死を防げたか。そんなことばかり考えてきた。

講演の終盤、上野氏は明快に言い切った。「24時間巡回訪問介護、24時間対応の訪問医療、24時間対応の訪問看護、この3点セットがあれば、おひとりさまでも在宅で死んでいける。末期がんなどの痛みのコントロールも可能だ」。さらに、在宅ホスピスは生と死を支える総合的なケアが求められており、生命と暮らしをマネジメントするTHM(トータル・ヘルス・マネジメント)の存在が重要であるとも説いた。

在宅の看取りのメリットは、本人や家族の満足度が高いのが特徴であると上野氏。一方で、在宅ホスピスケアを行う訪問診療所の数は決して多いとはいえない。上野氏が3点セットと表現した訪問看護や訪問介護の事業所も増えていかなければ、在宅ホスピスは実現しない。

確かに「訪問診療医は一周遅れのトップランナー」(上野氏)であるが、市民も意識を転換する時期である。終のすみかはどこを選ぶのか、あるいはどう死にたいか、自らが考えるということだ。

孤独死した老女を思うにつれ、おひとりさまが在宅看取りを迷わず選択でき、しかもQOLを高める総合的ケアを受けることができる、そんな介護保険制度にしていく時代がやってきたと痛感した。

甘利てる代(ノンフィクションライター)

カテゴリー:ケア・労働・正義 / シリーズ

タグ:ケア / 労働 / 上野千鶴子 / おひとりさま / 正義 / 甘利てる代