エッセイ

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「旅は道草」その16 『かくれ里』に、かくされた謎 やぎ みね

2010.11.20 Sat

旅の楽しさとは、時と空間を行きつ戻りつしつつ、「私は今、この地にいる」という、わくわくするような感覚。あるいは「地理と歴史の交点に隠された謎を、少しずつ解きあかしていくうれしさ」とでもいうべきか。白洲正子の『かくれ里』や『近江山河抄』は、そんな旅への誘惑をそそり、読むものを、その地へと導いていく力を持つ。

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つられて私も琵琶湖まで出かけてみる。JR京都駅から湖西線に乗り、琵琶湖西岸を行く。小さな旅は各駅停車に限る。唐崎、堅田、和邇、高島、永原まで途中下車しながら湖岸を歩き、山を眺める。意外と湖水と山が近い。

ひなびた漁村の家の庭に見事な石の燈籠があった。ここは水の里、石の里なのだ。比叡山の麓・坂本の日吉神社。いずれの里坊の石垣も見事だった。唐崎近く、穴太村の石工・穴太衆が組んだとされる、がっちりと素朴な石組み。大きな石と小さな石との組み合わせが大事。石垣にそっと耳を近づけ、「あなたはどこにいたいの?」と聞けば、「わしは、ここがいい」とばかりに、石の声が返ってくるような気がした。

堅田は中世の海民・堅田湖賊が、水運を通じて財力や武力を蓄え、活躍した拠点。網野善彦流にいえば同じ海民同士、もしかしたら平清盛も、安芸の宮島から瀬戸内を経て琵琶湖へ船を乗り入れ、湖賊と「ヤアヤア」と出会っていたかもしれないな。

列車の進行方向に向かって右は湖、左は比良山に連なる、こんもりとした古墳群が見えてくる。和邇から白髭神社を経て高島付近の古墳群には新羅、百済の埋葬品が多く出土されたという。朝鮮半島から海を渡り、近江にやってきた渡来人たちは、その後の日本の歴史に大きくかかわっていくことになる。

たとえば良弁。一説には百済から渡来の子孫とされるが、紫香楽の宮建設を聖武天皇と夢み、やがて奈良・東大寺の造営に大きな力を発揮する。栗東の金勝山から採掘される「金青」や木材、石を自在に操る技術者集団(渡来人)を、巧みに束ねていく名プロデューサーだった。資材を運ぶルートは、二月堂のお水取りと同様、若狭~近江~大和~吉野へと続く古道だ。かつてそこは人や物流が行き交う賑やかな道だったに違いない。

高島駅近く、戦国時代の織田信長の甥・信澄が築いた大溝城跡がある。数奇な運命をたどる信澄は、父を信長に殺され、本能寺の変の後、明智方と疑われたために、大坂城で自害して果てる。今は、つわものどもの夢の跡、石垣が残るばかり。

湖北の桜は遅い。この春、見納めの桜を見た。永原駅から、つづら折れの道をバスで行く。小さな船から満開の桜並木を愛でつつ、中世惣村の歴史を記す「菅浦文書」で知られる菅浦も、謡曲「竹生島」の島影も、すぐ目の前だ。やっぱり近江は湖からの眺めが一番。

塩見鮮一郎『江戸の城と川』によれば、そもそも地図とは、地面に池を描き、「ここを回って」と教える、言葉によらない表現手段。相手との距離や時差を超える共通のコードとなる。まず「地図」より先に「水図」があったという。地と水の境は刻々と動くもの。だが、近代の地図は、水と地の境を固定化してしまった。そしてそこからの逸脱を「氾濫」と呼ぶという。

そうだ、近江は、先に「水図」があったのだ。その後、「水図」と「地図」を自由に動かしていったのは、かの海民であり、渡来人であり、修験者たちではなかったか。

白洲正子は、「木と石と水、それは生活に必要なものを生み出す「山」のシンボルであり、日本人に秘められた三位一体の思想である」という。

古来、修験者(山伏)たちは、木材や鉱物を供給する生産者であり、土木を開発する技術者であり、医学にも詳しい知識人の集まりであったとされる。

先頃、生誕100年特別展「白洲正子 神と仏、自然への祈り」が滋賀県立美術館であった。白洲信哉氏・企画の仏像展示と講演会に、雨にも負けず、たくさんの人が来ていた。立ち見で聴いた「明治初年、日本の人口は約3500万人、そのうち修験者(山伏)は50万人いた。だが、明治5年の修験禁止令後、山伏は激減した」というお話。「ふーん」と思って聴いていたら、後で、ロビーにいた年配の女性が、「今も山伏が、もっとたくさん残っていたら、日本の山からレアアースもレアメタルも見つけてくれるのに。そしたら中国に頼らなくても済むのにね」と、つぶやいたのが、おかしかった。

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