2010.11.30 Tue
5ヶ月も前のことですが、7月頭に、朝鮮半島を二分する非武装地帯(DMZ=demilitarized zone)に位置する、「板門店」(パンムンジョム)へ行ってきました。
実は、この時のことをいつか取り上げようと思いつつ機会を見ていたのですが、他に「タイムリーなネタ」もないからと、第8回で書こうと決めたのが、11月23日の朝。しかしその日の午後、韓国側の軍事境界線近くにある延坪島(ヨンピョンド)と周辺海域で、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)と大韓民国の両軍が交戦し、一気に「タイムリーなネタ」になってしまいました。両国は、60年近くもの長きにわたって、ただ休戦中なだけなのです。DMZも板門店も、今なお厳しい緊張のもとに置かれており、常に「タイムリー」な場所なのだということを痛感しました。
非武装地帯(DMZ)とは、朝鮮戦争(1950~1953年)の休戦協定に基づいて設けられた軍事的緩衝地帯です。朝鮮半島を横切る北緯38度の休戦ライン(「38度線」と呼ばれる軍事境界線。正式名称は「軍事分界線」)に沿って南北それぞれ2キロ、計4キロの幅で設置され、南側は国連軍、北側は朝鮮人民軍が管理し、24時間の厳戒態勢をとっているそうです。休戦協定では、「非武装地帯内で、または非武装地帯から、また非武装地帯に対して」敵対行為を行うことが禁じられていますが、軍事的トラブルは耐えず、南北の緊張関係を表す場であり続けてきました。

写真1
そして、そのDMZ内に位置する板門店こそが休戦協定調印の舞台であり、国連軍と朝鮮人民軍が、軍事境界線をはさんで共同で警備する共同警備区域(JSA=Joint Security Area)です。(写真1 板門店にて。北朝鮮側の建物である板門閣と軍事停戦委員会会談場。)ソン・ガンホ、イ・ビョンホン、イ・ヨンエが出演し、2000年に大ヒットした映画「JSA」の舞台はこの板門店です。ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、「南北分断の象徴」として注目を集めてきた場所です。
なお、韓国側では、非武装地帯の南端から4~25kmの幅で民間人の居住・出入りを厳しく制限しているため、板門店は基本的にツアーに参加する以外の方法では訪問できません。とは言え、外国籍であれば前日までに申し込めば良いのですが、韓国籍であれば30名以上の団体かつ三ヶ月前までに申し込まなければ参加できないそうです。また、ツアー当日はパスポート持参、露出の高い服やサンダルは禁止など、服装規定もあります。
私が参加したツアーは、臨津閣(イムジンガク)~第3トンネル~都羅(トラ)展望台~都羅山(トラサン)駅~板門店という行程でした。

写真2

写真3
臨津閣では、休戦協定後に捕虜が渡ったという「自由の橋」や、朝鮮戦争時に爆撃を受けた後、56年もの間DMZ内に放置されていたという機関車などを目にしました。(写真2 56年間DMZ内に放置されていたという機関車。移設・保存処理の上、2009年から臨津閣にて一般公開)豊かな自然に囲まれた一帯でありながら、民間人の立ち入り区域を厳しく制限する鉄条網がとても印象的でした。(写真3 鉄条網と統一祈念のリボン)
銃を携帯した兵士によるパスポートチェックを受けた後訪れた第3トンネルは、ソウルからわずか40kmの地で1978年に発見されたもので、北側が「対南奇襲」を目的として掘削したものとされています。モノレールに乗って、地下73mに掘られたトンネルまで移動し、トンネル内を少し歩きました。ひんやりとした空気とともに、冷戦時代でもあるトンネル発見当時の緊迫状況にも思いを馳せざるを得ませんでした。

写真4
迷彩柄に彩られた建物である都羅展望台では、バルコニーに設置された望遠鏡を使うなどして、非武装地帯と遠く北朝鮮(開城市など)をのぞむことができました。(写真4 都羅展望台と写真撮影ライン)とは言え、バルコニーからの写真撮影は禁止されており、そこから10mほど内側に写真撮影ラインがひかれ、そこからのみ写真撮影が可能となっていました。

写真5

写真6
そこからほど近い都羅山駅は、南北統一の未来を形にしたものでした。(写真5 都羅山駅舎)ガラス張りの立派な駅構内には、統一した暁には、釜山からパリへとつながる「ユーラシア横断鉄道」構想図が掲げられており、またそれが実現した時利用できるように、空港で見かけるような旅客・貨物システムなども準備されているようでした。ホームには、「ピョンヤン←→ソウル」と記されており(写真6 都羅山駅ホームにて、「ピョンヤン←→ソウル」)、この線路はそこまで続いているのかと思うと、近く感じたのですが、一方で、駅前の道路に設置されている行き先案内板に示されている開城(ケソン。北朝鮮領)への韓国側からの出入り制限は2008年以来続いており、その未来は楽観視できないものであることもまた確かです。

写真7
そして最後に、板門店へ。休戦ライン(38度線)を中心に、直径800mの円形を描く地域で、国連軍と北朝鮮軍によってよる共同警備が行われており、主に軍事トラブルに対応する南北会談の場として利用されています。訪問者は、国連軍の駐屯基地であるボニファス・キャンプにて国連軍のバスに乗り換えた後、基地内で板門店に関する説明を受け、「訪問者(見学者)宣言書」に署名します。そして一路、板門店へ――韓国側の施設である「自由の家」を通り過ぎると、いよいよ休戦ラインと軍事停戦委員会会談場をのぞむことができます。(写真7 左側の、扉が開いている青い建物が軍事停戦委員会会談場。後ろの白い建物は、北朝鮮側の板門閣)

写真8

板門店では、写真撮影が許可されている場所と対象が細かく決められていたのですが、兵士に付き添われながら二列に並んで入った軍事停戦委員会会談場内では、時間制限や、会談場内を警備する兵士には決して触れないようにとの注意はありながらも、比較的自由に撮影できました。(写真8 会談場内の兵士と国連旗。この国連旗の位置は休戦ラインを示します。)(写真9 会談場内から、外の敷石=休戦ラインを撮る。)

写真10
なお、写真撮影の許される場所とは、主に北朝鮮側を撮る場合であり、韓国側の施設や領域は撮影しないよう、注意が払われていました。板門店ツアーのメインである軍事停戦委員会会談場以外は、基本的にバスの車内からの見学であり、適宜「今は立って良い」「写真を撮って良い」というガイドの説明と指示に従いながら、板門店を見学したのでした。(写真10 「帰らざる橋」。「捕虜交換」の際、南・北どちらかを決めたら二度と戻ることができないとされたことから、この名がついたそう。バスの中から撮影。)
ツアー中ずっとと言えばそうですが、とくに板門店で、私はとても緊張していました。
もちろん、板門店ツアーが「観光ツアー」である以上、基本的に安全は確保されていると言えます。決められたコースを、決められた説明を受けながら進み、決められた場所・物を見物する。ガイドの指示に従って決められた場所で写真を撮り、土産物を買う。そのあまりのパッケージ具合に、私と同行だった日本人達は呆れつつ笑いつつ、わりとリラックスして参加していました。
ですが、私はその感覚を共有することができず、一人緊張していました。というのも、服装規定があると先に書きましたが、南側からの訪問者は、米国をはじめとする国連軍のゲストとして板門店を訪問していることになるので、何よりも私達の安全は国連軍(その実質は在韓米軍)によって守られているのです。そして、板門店では財布やデジタルカメラのケースすら持ち込んではいけないと言われましたが(物や手紙を忍ばせることができるため)、そこに行くな、あそこに出るな、あっちを見ろ、こっちは写真を撮るなと制限があること自体、それがいくら「見えすいたお決まりのルート」であろうとも、異常なことではないでしょうか。こんな想像は全く馬鹿馬鹿しいことかもしれませんが、もしあそこで私が、カーディガンを脱いで北側に投げたらどうなるのか・・・などと考えてしまいました。
板門店は、国際情勢の様々な要素が濃縮された、言わば「ショーウィンドー」です。分断の象徴であり、その厳しい現実に接する場であるとともに、ルールとパフォーマンスによって演出された場であり、紛れもなく観光地化しています。ですが、「観光化されているから」ということで笑っていられる、安心していられる感覚を、私はどうしても共有することができませんでした。
朝鮮戦争までは一寒村にすぎなかったという板門店が、なぜこういう場所になったのか、その原因にはもちろん朝鮮戦争があり、朝鮮戦争の背景には、日本の植民地支配があります。そして、戦後日本の経済的繁栄の影には、朝鮮戦争による「特需」がありました。そうであっても、結局ここを訪れる日本人にとっては、「対岸の火事」でしかないのかと、違和感を覚えた一日でした。
最後に、延坪島で交戦のあった23日には、日本の友人や家族から連絡があったりしたのですが、私自身は、夜に帰宅してTVを付けるまで全く知らず、知った後も、攻撃された島が仁川に近いことに驚きながらも、どこかピンとこないまま過ごしていました。
ですが、翌日、大学院のゼミで韓国人の学生達の声を聞くと、多くの人が、交戦のニュースを聞いた後は動転して何も手につかなかったと言い、兵役を終えた男子学生は、予備役として明日にも召集されるかもしれないと気が気ではなかったそうです。また在日韓国人の男子学生は、もし何かが起こったら、自分は韓国を出国/日本に入国できるのかと不安に思ったと漏らしていました。私が見る分には、「街はいつもと変わりなく」見えたのですが、決してそんなことはないのだと痛感するとともに、「もしここで何かがあったとしても私には逃げ帰る場所がある」という今まで意識したこともない安心感が、私が「いつもと変わりなく」いられる根拠だったんだなと気付きました。
また、先週土曜日(27日)には、ある男性グループのコンサートに行ったのですが、開演に先立って歌手本人がステージに出てきて、「延坪島で被害に合った方の冥福を祈る」と特別にコメントし、観客にも同感を求めるといった一幕がありました(ちなみに客席の3~4分の1近くは日本から来たファン)。ファンサービスのために出てきたのだと思い歓声をあげた客席とは対照的に、彼らの落ち着いた声がとても印象的でした。
痛みや傷痕に共感し、分かち持とうとすることは、誰が/誰の何を/なぜ/どのようにと、慎重に考える必要があるのですが、3月の天安艦事件と今回の延坪島交戦という、朝鮮半島をめぐる東アジアの緊張状態のなかで、まさに今、自分がどの立場から何をどう見るのかが問われていると言えるでしょう。板門店訪問から七ヶ月、私にとってもそれを切実に考える大きなきっかけとなりました。
※写真は全て、2010年7月7日に、著者が撮影したものです。
※参考文献-小田川興『38度線・非武装地帯を歩く』高文研・2008年。
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