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『まつろはぬもの』と『未完の旅路』  やぎ みね

2010.12.20 Mon

ある日、ドサリと重い一冊の本が届いた。シルクシイ著『まつろはぬもの――松岡洋右の密偵となったあるアイヌの半生』(ヤイユーカラの森発行)。

もう20年も前、ある編集者に頼まれ、シルクシイ(和名・和気市夫)の原稿入力を手伝ったことがある。コタンの風景をうたう少年時代のみずみずしい詩と、鉛筆描きのスケッチが印象的だった。その後、沙汰止みになっていた出版が、著者の死後10年を経て、アイヌ文化振興・研究推進機構の支援により、ようやく日の目をみた。生きておられれば92歳になる。

子どもの頃から神童と呼ばれ、8歳で旭川商業高校2年に編入、1929年、11歳で満鉄傘下のバルピン学院に入学。英・仏・露・中・モンゴル・ラテン語・ギリシャ語と体育、銃器、無線通信、暗号の特訓を受け、13歳でロックフェラー財団に属する北京・燕京大学で国際政治と東洋史を学ぶ。当時、満鉄の理事を務めていた松岡洋右の指示だった。以後、松岡の密命を受け、中国・中央アジア・南アジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカへの旅を続けることになる。

松岡の密命は「日本軍の戦闘中に起こった暴虐行為の真偽を調べること。作戦行動に関係なく起こされた人倫にもとる行為を調べること。中国、東南アジアの思想傾向を調べること」。そして、中国人に身をやつし、南京虐殺直後の現場に入り、マレー半島一帯での俘囚虐待や、従軍慰安婦たちのありようを、その目で現認する。彼の言によれば、いかなる時も、いかなる場でも、自ら人を殺したことはないという。

1945年8月16日、国民党公安部により逮捕。拷問と土牢拘置を3カ月。あるルートで救出後、日本へ送還。東京裁判で松岡洋右の重要参考人容疑者となるが、松岡の死去により釈放。戦後はGHQ本部地下室に軟禁され、鎖につながれ、各国憲法の翻訳に携わったという。

歴史に渦巻く暗い謎と巧妙な駆け引きに翻弄されつつ、彼を支えたものは何だったのか。ある種のフリーメイソン的正義感(これもまた男性のみ)なのか、アイヌの「まつろはぬもの」としての誇りだったのか。今は知るよしもないが、生前に一度、お会いしたかったなと思う。

そしてもう一冊。大塚有章著『未完の旅路』(全6巻)(三一書房)を読み、「毛沢東思想学院」に大塚さんの話を聴きに、まだ小さかった娘をつれて宝塚に訪ねたのは、もう30年以上も前のこと。そしてその1年後、大塚有章氏は亡くなられた。

姉の秀は河上肇夫人。妹の八重は末川博夫人。妻・英子の遠縁には難波大助がいた。戦前、共産党に入党時、M資金銀行強奪事件で逮捕され、満期10年の服役後、戦中、満映協会に勤務。戦後は八路軍と行動を共にし、帰国後は毛沢東思想の大衆路線を日本の若い人たちに伝えた。

シルクシイと大塚有章と、長い、長い未完の旅を続けた男たち。密命を帯び、あるいは左翼運動を駆け抜けた男の影で、残された母や女や子どもたちは、どんな思いで暮らしていたんだろう。壮大なロマンを生きる男たちに、少々腹立たしい思いもあるけれど、案外、女たちは「わたしはわたし」と強く生きていたのかもしれないと、思ってもみる。

 時代は変わった。男の旅に代わって、女たちがつくり出す旅の広がりが、すでに始まっている。今や世界各地に奥深く、現地の人々とともに活動するNGOの女性たちが、なんとたくさんいることか。海外に飛ぶ彼女たちと、WANのネットワークを結んで、World-WANを立ち上げよう。そう思ったら、なんか、とってもわくわくしてきた。

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