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『人生万歳!』――ウッディ・アレンの描く無垢(イノセント)な女性像―南部娘篇― 川口恵子

2010.12.21 Tue

『人生万歳!』 監督/ウッディ・アレン

『人生万歳!』 監督/ウッディ・アレン

ウッディ・アレンの映画に登場するヒロインは,純真無垢(イノセント)だ。そしてユダヤ系アメリカ人としての自己意識をパロディ化する映画作りを続けてきたアレンの分身的主人公は,常に,懐疑的で,世の中に対してハスにかまえている。現実の女性ならば,あまり近づきたくはないタイプの男性といっていい。

監督40作目の本作『人生万歳!』では、バツイチの老物理学者ボリスがこの分身にあたる。監督もかなりオールドになっただけに、分身もオールディ・・・しかもいつもご機嫌斜め。「ノーベル賞をとりそこねた」からか。住まいはダウンタウンのオンボロ・アパート。イースト・ヴィレッジのモロッコ料理店で,同じシニア仲間相手に毒舌たっぷりの人生観を披露する冒頭に表れているように,いわゆる人生の快楽とはすでに無縁となった存在だ。しかも話が長い。説教まで垂れる。かわいくない。

買い物も安いチャイナタウンですませる。見栄を張る必要もない年なのだ。仲間の家でサックスのセッションを楽しむときも、仲間の誰かについて「あいつはこの前死んだ」なんてカジュアルに言わせる・・・アレン監督の自虐趣味の度が過ぎて,哀しいような,可笑しいような。

昔は(といっても1970年代のことだが・・・と書いた途端にばれる私のオールディーぶりにも涙が出そうだ)、ダイアン・キートンとテニス帰りにニューヨークの街を車でぶっとばしたり(『アニー・ホール』)、夜のマンハッタンを犬を連れて散歩したりするさまを見せてくれていたのになあ・・・・(『マンハッタン』)あの頃、アレン映画が見せてくれたNYは、とにかく、お洒落で知的で輝いていたけれど。そういえば今回は本屋も映画館も出てこない・・・かろうじて後半、良妻賢母型サザン・レディ風ママが、前衛写真家に転身してからはアート・ギャラリー・シーンがあったけれど。全体に、なんだか地味・・・。ユニクロまで登場する。不況っぽい。沈滞ムードの香りがする(そういえば、今夏、35年ぶりに訪れたNYもなんとなくそんな雰囲気がしたな・・・<アメリカの時代>は本当に終わりを告げつつあるのかもしれない)。

ともあれ、そんなジジイ・ボリスの前に,ある日,唐突に、若く,美しく,人生のことなどまるで知らぬげに,うぶなヒロインが姿を現す。そして、ごく短い間、彼と生活を共にすることになる。というか、なぜか結婚する。年齢差を考えれば、信じがたい設定だが,これも,オールド・アレン・ファンには馴染みの展開だ。それに原題はWhatever Works。ヘンでも何でもうまくいけばそれでいいのだ。っていうか、また、この人、自分の人生をパロディにしてしまってるワ。幸福な映画的人生だ。

例の『アニー・ホール』では,イノセントな娘は、中西部(ウィスコンシンだったか・・・アメリカの田舎の保守的退屈さが、食卓を囲む家族の会話でうまく表されていた)からやってきたものだが,本作では、南部の家出娘という設定なのが興味深い。サザン・ホスピタリティってやつか。

南部娘を演じるのは、いかにもアレン好みの目のぱっちりした無垢な顔立ちの新人女優エヴァン・レイチェル・ウッド。天然系と思いきや、やがて崇高なまでの清らかさが,スクリーン一杯に広がる。ミア・ファローを思い出すなあ!(まさか、また狙ってるわけじゃないよね?!)

そして、これこそ大事なことだけど、アレン流マジックはいまだ健在だ。特に,後半,この家出娘の母親(素晴らしくコミカル!)が,南部からNYに現れてからのさまざまな仕掛けが,愉快で楽しい。ジジイ・ボリスだけの場面はあまり成功してない。ていうか全然笑えない。名コメディアンとのことだが,いまいち愛せない風貌をしているせいだろうか。ハリソン・フォードに演じてほしかったな。

そしてまた,数々のアレン作品でみたごとく,別れは、唐突にやってくる。そして,主人公の男は,学ぶのだ(いまさら遅い気もするが)。人生は,機知をふりかざすためにあるのではなくて、楽しんで生きるに値するものだと。本作でも,メロディと別れた後のボリスに,思わぬ奇跡的な出来事が訪れるが,それは,映画を見てのお楽しみ・・・といっても,西洋の喜劇の伝統によくあるように(シェイクスピア喜劇『から騒ぎ』を思い出す),祝祭的な大団円的結末が,現代ニューヨーク流にアレンジされて添えられているにすぎないのだけれど。とにかく、そこでは,ストレートも,ゲイも,懐疑的なユダヤ系知識人も,堅苦しい南部の中年男も,南部の元良妻賢母も,突然天災(天才!)が空から降ってきて足を骨折した不幸な女も,皆が,ハッピーに,新たな人生を送り始めるのだ・・・

見所は,むしろ、別れの場面にあるといっていい。ウッディ・アレンの作家性が刻印されている場面だ。彼の映画では、常に、別れの瞬間にこそ、大切な何かが、主人公の男性におとずれるのだから。その瞬間を、どう呼んだものか・・・適切な言葉が見つからない・・・福音とか、恩寵とか、宗教的な言葉でしか言い表せないような何か。エピファニーとでもよぶべき、日常の時間には属さない聖なるものの出現といったらいいだろうか。

ともあれ、それは、ジジイ・ボリスを通してもたらされるものではけっしてない。目の前の、今ようやく、彼にその真価がわかるに至った、純粋無垢(イノセンス)の輝きを通して、到来するのだ。味気ない無意味と思えた人生に,その時,ようやく、真の音楽が鳴り響く。メロディという名の娘の存在をとおして(アレンも救われたいんだね・・・)。

理屈だらけの言葉では表せない何かを、女性の無垢をとおして描くことに、ウッディ・アレンという監督は、信じがたく、天才的だ。

初出:『女性情報』2010年11月号(WAN掲載にあたり加筆訂正しました)

(c)2009 GRAVIER PRODUCTIONS, INC.
公開情報/恵比寿ガーデンシネマにて公開中、全国順次ロードショー
URL/http://www.jinsei-banzai.com

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カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:くらし・生活 / 川口恵子 / アメリカ映画 / 女性表象