エッセイ

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私たちの知らなかった韓国現代史 中西豊子

2010.12.21 Tue

あまり出来の良くない生徒の私ですのに、韓国語を教わっている先生から、恐縮にも1冊の本を頂きました。それはタイトルから驚くような本でした。『死刑台から教壇へ―私が体験した韓国現代史―』。著者は、康宗憲(カン・ジョンホン)さん。1951年に日本で生まれた在日2世です。ソウル大学医学部に母国留学し、その在学中に国家保安法違反、つまり北のスパイ容疑で拘束され、77年には最高裁で死刑が確定しました。アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.
政変で、無期懲役へと減刑になりますが、88年に仮釈放されるまで実に13年間もの間、冤罪で獄中生活を余儀なくされた方です。その一部始終は、まさに韓国現代史をなぞるようなお話です。日本に帰還後、阪大大学院で国際政治を学び、大学で教鞭をとるようになるまでの自分史ですが、正にそれは同時代の社会を映すドキュメントです。

1961年の軍事クーデターで政権を奪った朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が、1969年、2期までと制限されていた大統領任期を強引に3選可能に変え、1972年10月には大統領が自ら「上からのクーデタ」を発動します。国会を解散し、非常戒厳令を敷き憲法改正へと向かいます。1974年宣布されたのが悪名高い「維新憲法」です。彼が日本陸軍士官学校卒で終戦時満洲国軍中尉だったということはよく知られています。明治維新の「維新」から命名したと言われますが、民衆には大変評判の悪い憲法です。

この維新体制はいくつかの市民の権利を制約し、その一番最たるものが「言論の自由」を奪ったことです。これに対して当然のことながら新聞人や大学で、抗議運動が起こります。その広がりを懸念して、大統領緊急措置令が宣布されました。①「維新憲法」を否定し反対する一切の行為を禁じる、②改憲請願運動を禁止する、③流言蜚語の禁止、④上記の禁止行為に関する報道を禁止するといったようなもので、違反者は、令状なしで拘束し15年以下の懲役刑というひどいものです。こんな脅しにも拘わらず、若者たちを先頭に、民主化を求める反政府運動が全国的に拡大しました。拘束者が続出し、10年や15年といった長期刑が当たり前のようになって、警察では拷問が繰り返されました。

こんな中、75年11月各大学の学生運動リーダーたちが次々と検挙されるようになります。「学園浸透スパイ事件」などをでっちあげ、反体制学生を韓国軍保安司令部に連行しました。著者も、「北朝鮮のスパイ」とされて死刑判決を受けることになるのです。
誤った権力の恐ろしさを目の当たりにするようです。

残念なことに、日本の軍隊で拷問の仕方を学んだと言われる朴大統領です。思想犯へのすさまじい拷問で思考能力も体力もなくなった人に肯定させ、重刑にする。国家権力が国民に襲いかかる猛威ほど恐ろしいことはありません。軍隊は他国に銃を向けるより、自国民に銃を向けるときの方が多いと、昔聞いたことがあります。私はまだ小学生だった戦争中、近所の人が憲兵に連行されたと聞いたにとき、訳もわからないまま、強い恐怖心に襲われたことがあります。

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「大統領の理髪師」(監督イム・チャンサン 主演ソン・ガンホ 2004年)という映画では、のどかに送っている日常の生活が、不用意な近所の人の言葉で、突然、国家情報院に連行され命さえ奪われる様子が描かれていました。身に覚えのない庶民が情報を知るはずもなく、毎日拷問の果てに、近所の人の名を言われて「はい」と答えればまたその人がしょっ引かれる、という恐ろしい様が描かれていました。

平凡な理髪師は、突然やって来た大統領側近に命じられて恐る恐る青瓦台へと向かいます。理髪師の子どもも、北のスパイの嫌疑をかけられ、電気ショックの拷問に遭います。

結局、息子は歩行不能となって返されるのですが、その後はさすがのお人好しで体制に従順だった理髪師も、大統領の理髪師をやめたいと願い出て、息子の足腰を直すことに専念するという話だったと思います。2000年代になって漸く制作されるようになったそんな映画によって初めて知った苛烈な隣国の現実ですが、私たちは当時よく知らなかったのです。

パク・チョンヒ大統領が、1979年側近中の側近であった中央情報部長によって暗殺された事情も映画「大統領暗殺」(原題「その時、その人びと」監督イム・サンス、出演ハン・ソッキュ、ペク・ユンシク)によって知ったようなわけです。勿論映画ですからフィクション部分もありますが、監督を始め制作陣は史実を追ったようです。この映画は一瞬真っ黒に塗った画面が出て驚きましたが、大統領の遺族の抗議で黒く塗りつぶしてそれでも上映したということでした。後日知ったのですが、映画の中で、パク大統領の要望で日本語の歌謡曲「北の宿」(当時日本の歌は韓国では厳禁だった)を唄っていた歌手は実在で、暗殺現場にいたため放送出演を長く禁じられたといいます。

その後も、政治的には大変な紆余曲折を経てきた韓国は、しかし現在のような経済成長を遂げました。金大中(キム・デジュン)大統領時代の日韓文化の交流政策によって、日本でも南北の融和の模様がニュース番組に登場するようになりました。余りにも多くの犠牲を払って、著者たちが願った南北が一つになるという悲願が近づいたかと思われました。けれども続くノ・ムヒョン大統領は失脚し、また右に舵を切った現大統領の登場でした。そして残念ながら、北からの攻撃事件が続けて起こりました。あの激しい民主化闘争を経て漸く訪れた民主的で平和な日日に、暗い影が落とされないことを願ってやみません。








カテゴリー:WAN的韓流 / シリーズ

タグ:映画 / 韓国 / 中西豊子 / 康宗憲